teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


四方の風

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 2月16日(土)09時00分50秒
  黙示録に
「わたしたちが、神のしもべらの額に刻印を押すまでは、地にも海にも木にも害を加えてはならない」(七章三節)
と書いてあります。今の人達は「今の平和は特別な力によって維持されている」「どういうことをしてもこの平和は崩れるということがない」と認識しているようですがそれはその点においては正しいと言えます。今の平和はたしかに特別な力によって維持されているもので今の時点ではどういうことをしてもそれが崩れることはありません。しかし、その風は解き放たれるために抑えられているのです。世界の現状を見てみればどこをどう見ても風が抑えられているようにしか見えません。政治・経済・軍事・地殻や気象などもすべてが神秘的な変質を迎えるその直前の状態にあります。福音に従わない人達は今の平和が恒久的に続くと思っていますがそれはただの甘えです。そんなことあるわけないじゃありませんか。世の中そんなに甘くありません。成長を拒否してひたすら欲望を追求してきた人々は自分が貧しくて、裸で、目が見えないという逃れようのない現実に直面することになります。その時になってから後悔しても何もかも遅い。今はまだ後戻りのできる時間ですが、もうすぐそれができなくなる時が来ます。

>よしゅあさん
白血病というのは今はもう不治の病ではないのですかね?最近癌の新しい治療法が発見されたと聞いていますし、池江選手にもがんばってもらいたいです。
 
 

池江さんのために祈りたい・・・

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2019年 2月15日(金)06時50分59秒
  池江璃花子さんのニュースにビックリしました!
池江さんのために、すべてのクリスチャンはお祈りしたいですね・・・
主よ、池江璃花子さんに、早急な回復・いやし・東京五輪での十分な活躍をお与えください。
池江さんとご家族に、平安と慰めと、早い回復への強い確信と、未来への明るい希望をお与えください。
池江さんとご家族に、主を信じてすくいを受ける恵みをお与えください。
主イエスのみ名によって。
 

獣の刻印

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 2月13日(水)11時03分36秒
  思うのですが・・・獣の刻印の艱難というのも結局は「新しい世界に入るかどうか自分で決めなさい」というただそれだけのことなのではないでしょうか。私は人間的に「その時までしっかり生きたとしてもうっかり隙が生じて獣の刻印を受けてしまったらどうしよう」と思っていますが、神と真理を求めてしっかりと生きていれば144000人の一人になることは決して難しいことではないはずですし、神の刻印があれば「獣の刻印を受けてみようかな」ともし思ったとしてもそれは実現しないはずです。なんと言いますか獣の刻印の艱難もまた神の監督下で行われるのですし、そもそも神の監督下で行われないことなどこの世にはありません。  

そうですね

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 2月 9日(土)11時52分12秒
  >よしゅあさん
>私は、世の終わりというより

ええと、たしかにそう言いましたが・・・私は「死んでしまった時が世の終わり」というのはそのように考えるのが人情であると思っているだけです。それが真理であるということではありません。
 

世の終わりというより世の中が正しくされるとき

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2019年 2月 7日(木)06時49分21秒
  宮本様
私は、世の終わりというより、
「キリストが世の中を正しくしてくださるとき」という表現のほうが正確のように考えています。
宮本様のように、人は死んだらすぐに再臨と復活になるという見解もあります。死んでから復活までは眠りのような状態になり、その間は、その人にとっては時間の流れが存在しないというものです。なので、どんな時代に何歳で死のうと、その人にとっては、死んだ直後に再臨と復活になるという見解です。
しかし、キリストのあがないは私たちが天国に行けるようにするためなので、あがないが完成されたあとは、キリストに正しくしたがっていた人は天国に行くものと思われます。
コリントⅡ5:1でパウロは天国に住まいがあること、5:8で肉体を離れて主のもとに住むことを願っていること、12:1~4で天国に行ってみたこと、フィリピ1:21~23で死んでキリストとともにいたいと願っていること、黙6:10~11で神と義人の魂とで会話がなされていること(この会話の場所は天国としか考えられません)などから、キリストに正しくしたがっていた人は、天国に行くことになると思われます。
 

夜の盗人

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 2月 5日(火)18時47分45秒
  「主の日は夜の盗人のように」(第一テサロニケ五章)
と書いてあることについて少し述べます。今に始まったことではありませんが「何月何日に主の再臨が迫っている」という無責任な運動がよくあります。最近も「古い秩序の崩壊が何月何日に」とかよく見かけますがそんなもの当たるはずがありません。聖書の理解が足りていないのです。盗人なんですからこちらの様子をうかがっているはずですし情報収集だってしています。地震や火山噴火と違ってわざとこちらの意表を突こうとするはずです。そして「夜の」ですから私達が寝ている時に来るんです。起きている間は来ません。じゃあ早く寝なければと言う人がいるかも知れませんがそんな短気を起こす必要もありません。人間がどんなにがんばっても三日と起き続けていることはできません。人間なんですからほっとけばみんな寝てしまいます。主の日はそういうふうに来るんです。その日を予測しようなんて変なことをする必要はありません。その盗人に対して優位に立つことはできないんです。
 

患難

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 2月 3日(日)17時41分56秒
  これからもうそう遠くない未来に世界は患難に入ると思いますけれど、本当にとんでもない時期になると思います。
今の人達は「神はない、神は何もしない、神の勝利などない」と完全な虚構に生きています。ある日突然に神が時間を切り上げて私達に与えられていた時間的猶予は終わります。その時に人間が神に勝てるはずはないということ、神以外に人間を救うものは何もないということを悟ります。聖書や仏教経典が飛ぶように売れるでしょう。そして「私こそが神だ」「私こそが預言者だ」と言う人が現れて人々を惑わします。それらを経て人々は「私は御国にふさわしい者となりました。ここを開けてください」と言います。そして神は「私はあなたがたのことを知らない」と言います。そして彼らは自分達を待ち受ける運命を泣き叫びながら受け入れなければならないのです。
皆さん聖書の言葉を守りましょう。
 

へえ・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 1月31日(木)07時17分34秒
  >よしゅあさん
へえ・・・そうなんですか。勉強不足でした。

>大城勝さん
>私の個人的な考え方では亡くなった方々にとっては、その日が世の終わりだったと考えてしまいます。

そういう日常的な感覚も大切だと思います。それから生活に余裕ができてよかったです。
 

再臨ですくいが終わるわけではありません。

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2019年 1月30日(水)21時03分46秒
  キリストが再臨されるとき、①地上でキリストにしたがっていた人は軽挙されます(コリントⅠ15:42~58、テサロニケⅠ4:16~17)。②天国にいた人は復活します(第一の復活)(テサロニケⅠ4:16、黙20:4~6))
再臨後、キリストは地上を1000年間支配します(1000年王国)(黙20:1~6、イザヤ65:20~25)。上記①・②の人々は、この1000年王国で指導的立場につきます。これらの人々とその子孫は、もはや死ぬことがありません(コリントⅠ15:42~58、イザヤ65:20~25)。1000年王国のあとも、新天新地(神の国)で神の都に入れます。ですので、①・②の人々は、再臨後にすくいが実現すると言えるでしょう。
③再臨前にキリストにしたがっていないまま死んだ人は「よみ」に行きます。④再臨後もキリストにしたがっていなかった人々は、そのまま1000年王国に入ります。この人々とその子孫には、死があります(イザヤ65:20)。死後はよみに行きます。
1000年王国の終わりに、よみにいた人々は復活します(第二の復活)(黙20:5、20:11~15)。そして神の裁きを受けます(最後の審判)。この最後の審判では、第二の復活になった人も1000年王国で指導的立場にいた人もふくめて、全人類すべてが神の裁きを受けます(使徒信条、マタイ25:31~46、ローマ14:10~12、コリントⅡ5:10)。最後の審判では、キリストにしたがっていた人も含めすべての人がさばきを受けるのです。ですので、最後の審判でさばきを受ける人のすべてが地獄行きになるというわけでは決してありません。
この裁きは、①神の国に行くか火の池(地獄)に行くかを明らかにするため。②神の国に入れる場合、神の国でどれだけの報酬を受けるべきかを明らかにするため。この2点を明確にするためのさばきと思われます。なので、キリストにしたがっていた人も含め、全人類すべてが神の裁きを受けるのです。
この最後の審判のときに、命の書に名前の載っていない人が火の池(地獄)に行きます(黙20:15)。
最後の審判のあと、新天新地(神の国)が実現します(黙21:1~22:21)。
命の書に名前の書かれている人は、この新天新地(神の国)に入れます。このときに、すくいが完成するわけです。
すくいが再臨で終了するわけではありません。再臨で終了するのでしたら、1000年王国の終わりに最後の審判を行う必要はありません。わざわざ1000年もたってから最後の審判が行われるのは、この1000年間が悔い改めの機会でもあるからです。最後の審判までに正しい悔い改めが認められた人々は、すくわれるでしょう(新天新地に入れるでしょう)。
 

宮本様

 投稿者:大城勝  投稿日:2019年 1月28日(月)11時15分40秒
  お陰様で今月の生活は立て直せました。感謝します。
それと同時に、やはり斎藤一人さんに集中が始まっているのですが、それは神様の摂理だと考えています。

また、キリストの再臨については、世界中で多くの災害が起こって多くの方が亡くなっていますが、
私の個人的な考え方では亡くなった方々にとっては、その日が世の終わりだったと考えてしまいます。

【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に来る前にエリヤが来ることが予言されていますが、
イエスは、バプテストのヨハネこそ再臨のエリアである。とも言われました。

いずれにしても、斎藤一人さんのやり方は最悪だと思いますが、
YouTubeに掲載されている教えはどの牧師さんよりも良いと思います。

なので、私は頑張ってひとりさんにコンタクトを取り続けていきますが・・・。
彼の弟子に成る。と言っても、決して彼にへつらってなるわけではありません。

警察に対してもへつらったことはありませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=ncd3DhAEKZg&t=9s

http://www.jesus4-25.com/yugi/777-999.html

http://www.jesus4-25.com/yugi/77-77.html

 

否定論について

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 1月26日(土)19時13分38秒
  >よしゅあさん
私のキリスト教に対する理解が正しければキリスト教は「時間」に対して特殊な考え方があります。仏教ではその人がいつ救いにあずかるかは完全にその人自身にゆだねられていて、基本的に「この時間を過ぎてしまったらもう救いはない」という発想がありません。しかしキリスト教にはそれがあります。具体的に言ってしまうと再臨がすべての時間切れを告げるものであり、その時点を過ぎればもう何をしても遅い。逆にその時点まではすべての人間に平等に「時間」と機会が与えられているのでよみとよみの救済の仮説もそれに準ずるものです。つまりよみという発想はキリスト教の時間に対する見解を端的に物語ります。

>大城勝さん
そう言って頂けるのはうれしいですけれど・・・
 

否定論の弊害

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2019年 1月25日(金)11時06分4秒
  宮本様 ほめてくださり、ありがとうございます。
否定論の言い出しっぺは、中世のローマ教会ではないでしょうか?当時のローマ教会は、「ローマ教会をとおして神は人にすくいを与える」と教えていました。なので、ローマ教会に属さない人(他教派・他宗教の人)には、すくいはありえないと教えていたようです。
その結果、カトリックによる中南米の大量虐殺・大量略奪が発生してしまいました!当時は、生きている間に自分たちと同じ信仰を持たない者は、すべて地獄行きの悪い連中なのだから、こうしたことも正義なのだという考えがあったようです。
もし、当時の人が、「死後にもよみでキリストを信じてキリストの子になれる機会はあり、キリストの子にしたことはキリストにしたのと同じことなのである」ということがわかっていたら、こうしたことはできなかったのではないでしょうか?清教徒も、同じ理由で、北米インディアンに大量虐殺・大量略奪をしてしまいました。否定論というのは、非常に弊害が大きいものなのです。
現在のローマ教会は、「1962~65年の第2バチカン公会議以降、救いは洗礼を受けている人に限らず、すべての人が受けられるもの、という考え方です」とのことでした。
ルーテル・聖公会・正教会・バプテスト連盟・ペンテコステ派・日基・SDA・改革派に、よみに行った人のすくいの機会について質問しましたが、否定論は1人もいませんね。「福音を知る機会に恵まれなかった人にも、私たちと同じように神の恵みはあります」「よみに行った人も含め、すべての人のすくいのためにキリストはきてくださったと信じています」「よみに行った人のすくいのために積極的に祈っています」という牧師は大勢いますよ。ある日基の牧師は、「よみでのすくいの機会を否定する考えは、キリスト教の教えではありませんよ」と述べていました。まったくそのとおりだと思います。
否定論は、現在では、ごく一部の教団・牧師(と名乗っている人物)だけではないでしょうか?
彼らは、否定論が正しいかどうかをどうやって確かめたのでしょうか?実際に命の書を見て、よみに行った人の名前が1人も載っていないことを自分の眼で確かめてみるか、直接キリストかヨハネに聞いてみるかのどちらかをしてみないと言えないはずです。私の場合は、先述したとおり、直接にキリストの御声を聴いておりますよ。
 

宮本様

 投稿者:大城勝  投稿日:2019年 1月22日(火)08時54分35秒
  祈って頂きましてありがとうございます。斎藤一人さんのことを忘れるようにして自分の生活を立て直していきます。本当にありがとうございました。

http://www.jesus4-25.com/yugi/77-77.html

 

これは大変だ!

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 1月21日(月)21時21分4秒
  >大城勝さん
どうやらかなり危機的なようですね。では私からもお祈りさせてもらって・・・ただこれを言うとそちらも嫌がるかも知れませんし書き込みが掲載されなくなってしまう可能性も高いのですが、私からは薬師如来に祈念させてもらいます。ええそうです、私は実は聖書を信頼してはいますがどちらかと言うと仏教徒です。私は神やキリストへの祈り方を知りません。祈祷とかそういう技術を持っているわけでもありませんが信仰はあると思っています。なお薬師如来に関する説明はちょっと場所が悪いので省きますが、薬師如来はとにかく人間の生活を守護する役目を担っています。斉藤一人さんのことはいったん忘れた方がいいです。最低限の生活は何よりも優先されるべきです。

>よしゅあさん
へえ、よしゅあさんって実に正確に聖書を研究なさっているんですね。私にはちょっと難しいですけどよみとよみの救済の仮説が神学的にも妥当なはずだという内容はなんとなく理解できます。
 

祈って貰えないでしょうか。

 投稿者:大城勝  投稿日:2019年 1月20日(日)08時46分35秒
  私の為に祈って貰えないでしょうか。
お願い致します。
http://www.jesus4-25.com/aitohikari/kifu-2.html

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/0007-1.html

 

よみでのすくいは本当に述べられていないか?

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2019年 1月19日(土)09時41分58秒
  否定論者の中には、聖書には、”よみでもすくいの機会があること”、”よみにいる人のために祈れ”とは明確に述べられていないという人がいます。しかし、
「よみから引き上げてくださる」(サムエル上2:6)、「よみから私の魂をすくいだしてくださいます」(詩86:13)、「よみでも主がいてくださる」(詩139:8~10)、「死んだ人にも幾しみを惜しまれない主」(ルツ2:20)(当時は、ヤコブやヨセフのように信仰があり神から愛された人々も含め、すべての死者はよみに行っていました。なので、このナオミの発言は、明らかに「よみに行った人にも慈しみを惜しまれない主」という意味です)、「地下(よみ)のものがすべて~「イエス・キリストは主である」と公に述べて父である神をたたえる」(フィリピ2:10~11)「よみでの賛美されている光景」(黙5:13)が明確に述べられています。
それに、使徒たちにとっては、よみにいる人にもすくいの機会があることは、いちいち言われなくても当然にわかっていたことです。なぜなら、キリストのあがない・昇天までに死んだ人は、ヤコブやヨセフ(創37:35、42:38、44:29~31)のように神から愛されていた人も含め、すべてよみに行っていましたし、キリストもあがないのあとによみに行っているからです(使徒信条、使徒2:31)。キリストはよみでヤコブやヨセフたちに何をなさったのでしょうか?福音を宣教されたとしか考えられません。また、未信者だった自分の家族や不運な人生に苦しんだ人のすくいを祈ることは、普通の人なら、いちいち教えられなくてわかることではないでしょうか?
むしろ、逆なんですよね・・・よみにいる人にすくいがまったくないのなら、なぜすくいがないのか、なぜ祈ることが悪いことなのか、当時の人が理解できるように明確に述べられていないとおかしいのです。なぜなら、否定論が正しいというのなら、あがない・昇天までに死んだ人は、ヤコブやヨセフたちも含め、すべて地獄行きになってしまいますし、ヤコブやヨセフがよみですくいを受けられるように祈ることが悪いことになってしまうからです。
キリストの昇天後でも、福音を十分に知る機会のなかった人も含め、よみの人はすべて地獄行きだとしたら、まったく理不尽なことになってしまいますし、キリストの愛の大きさ強さにまったく反することになってしまいます。私たちが罪人であったときから私たちを愛してあがないをしてくださるほどの愛の強さと(ローマ5:8)、人の知識をはるかに超える愛の持ち主であることと(エフェソ3:18~19)、まったく矛盾してしまうからです。
ごく普通の人でしたら、未信者だった自分の家族や不運な人生に苦しんだ人のすくいを祈ることくらい、いちいち教えられなくてもわかることです。事実、私も、キリストを信じるようになった当初から、死後にもすくいの機会はあるだろうと考えて知人のすくいを祈っていましたが、その私に、キリストは、直接に、明確に、「私はあなたのすべてを知っているよ。(中略)現状のままで私はあなたを愛しているよ」とみ声をかけてくださっています。
否定論者は、すでに自分の家族を未信者だったうちにすべてなくしてしまった人は、”自分の家族はすべて地獄行きである”、”自分の家族や不運な人生に苦しんだ人のすくいを祈ったら、キリストが怒って罰する”と信じなければならないとでもいうのでしょうか?こんなことを信じられるのは、精神異常者か性格異常者でしかありません。使徒たちを含め、普通の人には誰にも理解できないことです。なので、もし否定論が正しいというのなら、なぜよみですくいがまったくないのか、なぜすくいを信じることが悪いことなるのか、誰にでも理解できるように十分な説明が聖書に書かれていないとおかしいのです。
第一、もしキリストがよみに行った人すべてを地獄に落とすような方だとしたら、もはや神でもなんでもなく、悪魔かキチガイでしかありません。 否定論者は、キリストを悪魔かキチガイ扱いするつもりなのでしょうか?これでは、キリストに対する重大な冒とくになってしまうでしょう。否定論者は、明らかに聖書の初心者を主なターゲットにして巧妙に大うそを教えているのであり、ほぼ確実に偽教師としか私には思えませんね。
 

再臨を待ちましょう

 投稿者:宮本  投稿日:2019年 1月15日(火)15時37分59秒
  再臨を待ちましょう。再臨をまじめに、つつましく、辛抱強く待ちましょう。
それがいつになるかはわかりません。わからないんですが、私は再臨が「近い」という認識を持つことは必要なことであると認識しています。たまに御国の到来に持ち物の半分をあずげ、それが不発に終わってもいいようにもう半分をふところに残しておくというような生き方を目にしますが、そういう人は配当金にあずかれないのはもちろん残しておいた方のお金だって取り上げられるのです。考えてもみてください。私達の未来に待っているのは「再臨」であり「福音」ですよ?それは命を捨てても全財産を捨てても得る価値のある宝です。それがそんな中途半端なことで手に入るはずがありません。私達は再臨が「近い」という聖書に基づく推測を信じてそれにすべてを賭けるべきです。それは会社も学校もやめて祈ること以外何もしない生活に入るということではありません。うまく言えませんがともかく何かを自分の側に残しておこうという生き方をやめるべきです。すべての希望を再臨に託すべきです。「待つ」ということだって神が私達に課したものであって決して余計なものでも無意味なものでもありません。すべては再臨につながっています。まじめに、つつましく、辛抱強く待ちましょう。
 

アブラハムと金持ちのお話

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2018年12月22日(土)16時47分12秒
  聖書協会共同訳を購入して読んでおります。とても読みやすく訳されていると思います!
ところで、セカンド否定論者が決まって引き合いに出している「アブラハムと金持ちの話(ルカ16:19~31)」ですが、1.アブラハムは金持ちを助けることができなかった。2.この2つの場所はお互いに行き来できない。を理由に、この2つの場所は断絶していて、この金持ちは永遠にすくいを受けられず、この状態が永遠に続くと否定論者は述べています。
しかし、この金持ちをはじめ苦しみの場所にいる人は、最後の審判のときによみから出られることは確実ですよね・・・最後の審判のとき、よみにいた人はすべて復活して神の裁きを受け、そのあとよみは死とともに火の池(地獄)に投げ込まれてしまうからです(黙20:5、黙20:11~15)。よみは、再後の審判のあと、もぬけのからとなり、死とともに永遠に消滅してしまうからです。
最後の審判でよみから出た人は、その後どうなるのでしょうか?命の書に名前が書かれていれば神の国に入れますが、名前が書かれていなければ火の池(地獄)に行くことになってしまうでしょう。ただ、命の書の内容が明らかになるのは、最後の審判のときです。なので、最後の審判のときまで、誰が地獄に行くことになるのかは、誰にもわかりません。この金持ちの最終的な行先も、最後の審判まで誰にもわからないことです。
1と2については、なぜ苦しみの場所があるのかを考えれば、むしろ当然であることがすぐにわかるはずです。もし1と2ができるようだったら、苦しみの場所にいた人はすべて慰めの場所に移ってしまい、苦しみの場所は一人もいなくなってしまいます。これでは神が苦しみの場所をつくった意味がなくなってしまいます。隣人愛を実行してこなかった人は、しばらくの期間苦しみの場所にいて報いを受けなければならないわけです。なので、アブラハムはどうしてもこの金持ちを助けることはできなかったし、この2つの場所にいる人は、お互いに行き来することができないということなのですよね・・・
こうしたことを否定論者に話すと、まったく答えられなくなって話をそらしてしまいます。
否定論者は、おもに聖書の初心者をターゲットにして、大ウソついて人々を洗脳しているようにしか思えませんね・・・
 

Y H V H の 深 層

 投稿者:ありがとう^^感謝  投稿日:2018年11月 8日(木)19時56分21秒
  久保 先生の本「ゲマトリア数秘術」大変勉強になりました
ありがとうございます

神聖四字、テトラグラマトンに関する面白い発見をしたので
よろしかったらご覧ください

http://blog.livedoor.jp/occult_number/archives/9218761.html

 

呆れます

 投稿者:読者  投稿日:2018年11月 8日(木)01時33分59秒
  多数の引きこもりが働きに出れば、人手不足の解消になりますのに・・。外国人労働者だとか移民だとか、日本の将来にとって不穏な議論も出ています。日本人の引きこもりの人々よ、理屈抜きで働いて下さい。  

無職の末路

 投稿者:ハブヒア  投稿日:2018年11月 4日(日)14時17分18秒
  邪悪な生き方と思う詐欺師と同じく、いい若者がブラブラしている暮らしはそんな者達と同じく恥ずかしいと思います。
たった2度3度の挫折で引き篭もりになって、自分の望む所の、自由に思考できる時間はあろうとも、永遠に間違いない結論に到達する事はないと思います。
 長い無職の暮らしを細々と食えるだけ支えることが、僅かの期間に自分で稼いだ貯蓄で例え生活できているとしても??国民年金未払い?住まいは親がかり?
他にも、食べる物、着る物etc etc、勤労者が屈辱感にまみれて働いている人もあるだろうし、自分の時間を犠牲にし、ただ労働の犠牲になっている人もないとは言えないし、働くに十分な若者である無職人は無償で恩恵を受けているのにも関わらず、自らは世の中に何にも還元していないし!?いつ寝ろうが起きようが、身なりにも構わず、じだらくな暮らしの印象。
 今は親に支えられているとしても、介護や認知症にでもなれば、年金のみではとても賄えないと聞きます。
いずれ親子共々共倒れの可能性もあるし、極端な話し、ゆくゆくは生活保護。
 寿命が尽きて死ぬ事と餓死を一緒に考えるのは愚かだし、普通、餓死なんて事が現実に出来る人がそれほどいるとも思えません。
又、生活保護の申請をすれど却下されて自殺するしかない、行く末はそういう厳しい現実が待ってないとも限らない。
精神か心身の病か身体障害でもなければ、若者は働くべきという当然の思想が欠けているのは、病の一種ではないかとも思うんですよね。

聖書はブラブラしている人間が裁かれるとは書かれてないと思うけど、
そういう人の行く末というのは、裁かれる前に自滅してゆくか、社会のお抱え者になる可能性も。
やること、なすこと挫折してしまう弱者であるという温情の見方も当然できる面もありますが。
 ただ生活のためのみの苦しい労働は聖書の話にも遠くなるし、思考力は奪われてゆくけど、見果てぬ夢を見ているだけの者よりも、まだ神を知らない虐げられた労働者の方が尊いと思います。

愚かな者はその愚かさを繰り返す。
自分の目には自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか、
彼よりもかえって愚かな人に望みがある。
怠け者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。
戸がちょうつがいによって回るように、怠け者はその寝床で寝返りをする。
怠け者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。
             旧約聖書の箴言:10章12~16節

 

いやまあ私は無職なんですけど

 投稿者:宮本  投稿日:2018年10月29日(月)09時26分59秒
  私にも一般社会の通念に従って生活や老後のためにやりたくもない仕事に就こうとしたことがあります。数年前の話ですけど、結局それはうまくいかなかったんですよね。しかしあの時にそれがうまくいかなかったのはむしろ幸運だったんじゃないかと思っています。
何と言いますか、たった一度の人生なのですから夢を見ることにしたんです。聖書に「強い者の富は力。弱い者の貧乏は破滅」と書いてあるのは知っています。しかしそれと同時に「空の鳥は植えることも耕すこともしないが神はそれを養っている。ましてやあなた方は鳥よりもずっと価値あるものではないか」と書いてあるのも知っています。ですので不真面目が祟って餓死したとしてもそれはそれで仕方ないと思っています。それに餓死しなくても人間は最後には死んでしまうじゃありませんか。
それにこれは聖書に書いてあることでなくまた無責任な発言になってしまうかも知れないのですが、私は「お金」とか「労働」とか「職歴」とか「学歴」とか、また昨今で言うところの「リアル」などといった言葉で表されるあまり楽しげでない現代社会の束縛は、大きく変わっていくだろうと推測しています。「何の根拠があるのか」と言われてしまえばそれまでです。あまり根拠はありません。しかし「大患難」とか「再臨」とかに比べれば身近な発想だと思うのですけど。
現実逃避しているだけだと言われれば反論できません。しかしまあ何とかなるさと思っています。自分ではそれほど邪悪な生き方をしているとは思っていません。
 

霊感の働きでキリストを知っていた一部の聖人

 投稿者:ハブヒア  投稿日:2018年10月28日(日)13時39分45秒
  旧約時代に一部の聖人のみがなぜキリストを知っていたのだろうか?
それは一部の聖人のみが救世主キリストを感じることができる聖霊の働きを受けていたのだろうと思います。
人は神から受ける聖霊を与えられないと信じる事はできないし、聖書すべてが神の霊感を受けて書かれたものだと書かれているのがその証拠だと思います。


話しは一転しますが、ローマ法王はキリストを否定したり、持ち上げたりで、この症状は聖書そのものを100%信じていない証拠ではないかと思います。
ローマ法王のこうした状態も、法王ではなく一個人としてはあくまで未完成な人であるからには非難もできず、確かに私でも日々職場と家の往復で、人間関係のストレスにまみれていると本当に神の国など来るのだろうかとゆう気持ちにもなるし、人間は見えないものを信じる不思議な生き物だと思ったりします。
 神を信じるすべての人が救われるとは限らず、誰が救われるのかその日まで分かりませんね。
全能の神を全く知らない人でも救われるかもしれません!?
新人は先輩と反りが合わない、組する事ができない等すれば使い走りでしかなく、認めてはもらえないし、この世の辛い強制労働のみで十分罰は受けていると思うし、その上、神の審判の時にも裁かれてしまうのではあまりにも残酷でもあると思ったりするからです。
無職で生活できる身分は幸せです。
日々ストレスまみれで仕事をしていれば、神を信じられずにいても仕方ないとも自分の体験から思うんですよね。
 

主の日の軽視

 投稿者:宮本  投稿日:2018年10月27日(土)12時49分34秒
  「誰が何と言おうと神などない。最後にはそうした邪悪なものを信じない者が勝つのだ」と闇に属している人達はこの期に及んでも自分達の最後の勝利を信じています。
小野田少尉という旧日本軍の軍人をご存知でしょうか。年配の方なら知っているはずです。彼はフィリピンの戦場で孤立し、戦争が終結した後もそれを認識できずに実に三十年間にわたって戦闘を続行しました。彼はジャングルの中で日本のラジオ放送を傍受して万博など日本のイベントに関する情報を得ていたそうです。しかし彼はそれを聞いても「日本は豊かになっている。これなら戦争に勝つ日も近い」と考えていたそうなのです。
これは心理学的に興味深い現象のはずです。つまり人間は孤立すると外部からの情報を仕入れてもそれを自分を中心にした認識に置き換えてしまうのです。闇に属している人達も自分達の破滅が近づいてもそれを自分達の勝利につなげて考えてしまうのです。「地震や洪水、政治や経済の混乱などこの世界に神が到来する日はどんどん遠のいている。やはり俺が勝つのは間違いない」とますます確信をたくましくするのです。聖書からは彼らの末路をいくらでもたしかめることができます。イザヤ書14章19節から適当に引用します。
「しかし、お前は墓の外に投げ捨てられる。忌むべきものとされた水子のように」

>よしゅあさん
>使徒信条とよみくだり
ふむふむ。へえ。そうなんですか。

>旧約でキリストを知っていた人たち
少なくとも私にはちょっとわからないですね。なんとなく推測できるのは旧約時代の預言者達がキリストの到来をなんとなく予感していたのではないかということぐらいです。
 

あがないの前はすべてよみですね・・・

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2018年10月27日(土)10時42分9秒
  使徒2:34によりますと、ダビデは天国に行けなかったことが明記されていました。天国に行けなかったのですから、よみに行ったとしか考えられません。ヤコブは自分もヨセフもよみに行くものと理解していましたし(創37:35・42:38)、息子のユダも同様に理解していました(創44:31)。ヒゼキヤも(イザヤ38:10)、ヨブも(ヨブ14:13)、ダビデも(サムエル下22:6、詩86:13、88:4)、自分たちはよみに行くものと理解していたようです。旧約ではよみという言葉が60回以上も出てきますが、死後に天国に行ったという話は1回もありません。
すくいというのは、私たちが父なる神様のおそばに永遠にいられることを言うんですよね・・・つまり、私たちが天国・神の国に入れることを言うわけです。「キリストのあがないは私たちのすくいのためであり、キリストのあがないによらなければ、誰もすくいを受けることはできない」。これが聖書の教えの根本です。つまり、キリストのあがないは、私たちが天国・神の国に入れるようにするためであり、キリストのあがないによらなければ、誰も天国・神の国に入ることはできないということですよね・・・なので、キリストのあがないの前に死んだ人は、誰1人として天国に行くことはできず、ヤコブ・ヨセフ・ダビデたちのように神から愛されていたものも含め、すべてよみに行っていたわけです。
使徒信条・使徒2:31で、キリストがあがないのあとによみに行ったことが明確に述べられています。キリストはあがないのあとによみに行ってヤコブ・ヨセフ・ダビデたちに何をなさったのでしょうか?福音を宣教されたとしか考えられません。そして、よみでキリストにしたがった人々を、昇天のときに天国にひきあげています(エフェソ4:8)。ここで捕らわれ人とあるので少々わかりにくいのですが、キリストがご自分にしたがわない人を天国に引き上げることはありえないので、ここでいう捕らわれ人とは、よみでキリストにしたがった人々としか考えられません。
もし、あがないの前に死んだ人で天国に行っていた人がいたとしたら、キリストのあがないによらずにすくいを受けたということになってしまいます。これでは、「キリストのあがないによらなければ誰もすくいを受けることができない」という聖書の教えの根本を否定することになってしまいます。こうしたことを否定論の牧師(と名乗っている人物)に話をすると、まったく答えられなくなって話をそらしてしまいます・・・
  「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6))これは、どんな人でも、キリストのあがないと昇天によらなければ天国・神の国に入ることはできない」という意味なのですよね!
 

使徒信条とよみくだり

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2018年10月24日(水)21時42分31秒
  セカンド否定論者のなかには、使徒信条のキリストの「よみにくだり」の部分は、後世になってから追加されたものと述べている人もいるようです。よくそこまで神をも怖れぬ大ウソをつけられるものだと思ってしまいます。
使徒2:31~36を読みますと、使徒たちが明らかにキリストがあがないのあとによみに行っていたと理解していたということがわかります。なので、明らかに、初代教会のときからキリストがあがないのあとによみに行っていたと信じられていたということがわかります。
もし仮に、初代教会の人たちがキリストがよみに行っていないと信じていて、後世になってこの部分が追加されたとしますと、全世界のキリスト教会は、教会の歴史の途中で、突然キリストのみ心に反することを教え続けてきたということになってしまいます。これは、とても考えられないことです。
それに、キリストは、あがないのあとはよみに行ったとしか考えられません。といいますのは、キリストのあがないは、私たちキリストにしたがうすべての人々の身代わりという目的もあったからです。私たちの身代わりなので、私たちにとって最悪の刑罰を受ける必要がありました。私たちにとって最悪の刑罰はなにかというと、父なる神から見捨てられるということです。キリストは父なる神から見捨てられたので(マタイ27:46、マルコ15:34)、天国ではなく、よみに行ったのです(地獄は最後の審判のあとに行くところなので、この時代の人々は誰1人も地獄に行っていません)。キリストがかわりに父なる神から見捨てられてくださったので、キリストにしたがう私たちは、決して父なる神から見捨てられるということはないのです。もしキリストがよみではなく天国に行っていたとしたら、私たちの身代わりとして最悪の刑罰を受けたということにならなくなってしまいます。キリストがあがないのあとによみに行ったのは、よみにいる人々に福音を宣教するためと、私たちの身代わりとして最悪の刑罰を受けるという両方の目的があったのです。なので、キリストがあがないのあとによみに行ったということは、明らかに初代教会から続くキリスト教会の教えなのです。
否定論者の見解というのは、明らかな大ウソ改釈と強引な読み込みのオンパレードなのです。否定論を主張するために、彼らがいかに四苦八苦して改釈しているかが、本当によくわかるというものです!
 

旧約でキリストを知っていた人たち

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2018年10月23日(火)06時00分37秒
  旧約の時代は、ほとんどの人はキリストの存在についてまったく知らず、キリストを信じることができなかったと思います。しかし、ヨハネ8:56や使徒2:31を読みますと、アブラハムやダビデはキリストの存在を知っていたように読めます。どのようにしてキリストの存在を知ったのでしょうか?この2人とイザヤ(ヨハネ12:40~41、イザヤ6:1~10)以外にも、旧約でキリストについて知っていた人の記事はありますでしょうか?  

主の日

 投稿者:宮本  投稿日:2018年10月19日(金)22時02分4秒
  主の日を忘れたり軽視したりすることからあらゆる悲劇が生まれます。
「そんなものは実現しない」「これまで無視することが出来てきたのだからこれからも無視できる」「神と無関係でいればその日とも無関係でいられる」と思っている人が多いようです。しかし人間が、全人類が神を無視し続けることのできなくなる時が来ます。それが主の日です。なぜ聖書の中に何度も何度も主の日に対する言及があるかと言うとそれは何度も何度も尻を叩くようなものです。ちょうどホラー映画などでいわゆる「トラウマ」になるような体験をするのと同じように私達は主の日に対してそうした感覚を覚えるべきなのです。これはキリスト教圏でなくても同じで、日本でも中国でもインドでもチベットでも「主の日」という言葉はなくてもそれに類似する概念が存在するのです。たとえば日本では「怨霊」とか「祟り」といったものがその役割を果たしてきました。つまり人を傷つけたり踏みにじったりすれば必ず問答無用の報復があると、そういう健全な恐怖の中で人は信仰を育んできたのです。それが主の日の機能です。新約聖書にもありますが人々が「安全だ。平和だ」と言っているその矢先にその日は臨みます。聖書に書いてある以上それは実現します。そして神はどんな怨霊よりもどんな祟りよりも恐ろしいのです。人間がそれから逃れるすべはあるでしょうか。あるに決まっています。

>ハブヒアさん
え、同性愛者ってそんなに多いんですか?

あ、そうだ。韓国で作られたキリスト教系の動画チャンネルをリンクしておきます。同性愛に関してなかなか興味深い意見があります。韓国人もなかなかやりますね。

https://www.youtube.com/watch?v=KX-aQheJSK8

 

(無題)

 投稿者:ハブヒア  投稿日:2018年10月12日(金)23時24分8秒
  同性愛者であると言われる美輪明宏氏いわく、人が人を愛したとて何が悪いのかという持論があるようです。
その話を聞いて、その理屈も否定しようとは思いませんでした。

私は同性愛者ではないけど、異性に強い恋愛感情を抱くかといえばそうでもなく、総じて人間そのものを心から愛し信頼する事もできません。

同性愛者の人は左利きと同じ確率であるとも、13人に1人は存在しているとネットでの検索には書かれているし、職場にもいました。
なぜそうなったのか胎児の時に母親の薬物依存やタバコによる被害とか、家庭環境とか言われていて、自分が本気でどうにかしたいと思って心理療法などを受けて直るものか直らないものかも分からない。
もし私に子供がいたとして同性愛者であろうとも非難をするつもりもないです。
ニートが、死ぬまで不完全な人間が、人のことはとやかくも誰しも言えませんよね。
聖書は同性愛者をけん制しているけど、こういう人達にしろ神の創造した人間であることは間違いないと言えばその理屈も否定できないのでは。

 

続きです

 投稿者:宮本  投稿日:2018年10月 8日(月)20時21分37秒
  下の続きです。
世界が終わるということは絶対に来ませんが時代が終わるということはいつか絶対に来ます。世界が終わるというのはただの都市伝説ですが時代が終わるというのはキリスト教の基礎を成す教義です。この二つがきちんと区別されていないというのは危険です。特にノストラダムス以降の日本ではこの「終わり」という言葉自体に対して一種の拒絶反応が出るようになっています。しかし現実はサザエさんではありませんから最後には終わります。特にインターネットでは「人類滅亡」という言葉に多くの人が期待しています。その直感と期待そのものは私は健康的であると思っています。しかし世界の終わりと時代の終わりが違うということをきちんと理解していないと身を滅ぼすことになるでしょう。

>よしゅあさん
>同性愛について
聖書を調べても仏教経典を調べても同性愛がよくないというくだりは出てくると思います。しかし昨今の傾向はそれ以前の問題である気がします。私は男性ですがもしも私が男と恋に落ちたら社会からも家族からも理解されないことを覚悟します。もしも親が「そうか男と一緒になることになったか。それもいいだろう。式の日取りはいつだ?」なんて言い出したら何かが狂っていると言う他ありません。ですが同性愛と言っても愛なんですから男性は愛する男性と、女性は愛する女性と生きていく他ありません。愛というのはそういうものです。しかし「同性愛を社会的に認知するべきである」という傾向はさっきも言いましたが何かが狂っています。小児性愛ですら市民権など得られるはずがないのにどうして同性愛が別なんでしょうか?
 

レンタル掲示板
/63