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そうですね

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 7月18日(火)10時42分37秒
  たとえば織田信長は比叡山を焼き打ちにしました。当時の比叡山は武力と財力を備えた一種の荘園領主であり、仏教と信仰を盾にして自分達の腐敗や堕落・暴力などを正当化していました。それが信長の怒りに触れたわけです。信長は比叡山一帯に火を放ち、老人から子供に至るまで一人たりとも生かしておきませんでした。これは僧侶を殺せば必ず地獄に落ちると信じられていた中世日本の道徳観念から完全に逸脱しています。そしてそれは「見せしめ」でした。彼もそのつもりだったはずです。しかし当然ながらそれは憎悪と反発を招きました。誰だって「それはやりすぎなんじゃないか」と思ったはずです。しかし聖書には人間が神を憎む正当性というものが基本的にないはずです。それは聞いたことがありません。ですので見せしめというものを神が実行するのは論理的に難しくなってきます。ただ思いますのは・・・神は「恐怖」というものを利用することがあるのだろうか?ということです。方舟の伝説やソドムやゴモラにおいて、神は人間が恐怖を抱くのを望むのでしょうか。私は以前の書き込みの中で「神への恐れ」という言葉を使いましたが、それは「恐怖」なのでしょうか。「恐怖」と「畏敬」は同じなのでしょうか?それとも違うのでしょうか?そこのところはまだよくわかりません。  
 

横からすいません

 投稿者:白帯  投稿日:2017年 7月17日(月)19時39分2秒
  聖書には、「見せしめ」ではなく、示唆・警告・お手本が書かれていると思います。

また、聖書は日本語ではなく可能な限り、原文に忠実に訳されたものは素晴らしいと伺いました。
日本語では、知ってかしらずか「キー」が隠されていたり、誤訳されているとも聞きます。

西周(日本で最初のフリーメーソン=反キリ)が関わっていたからでしょうか?
 

うう~む・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 7月 8日(土)21時23分47秒
  >よしゅあ様
どうも私には少し複雑な話になっているようです。では実際には聖書に「見せしめ」という概念はないということでいいのでしょうか。ソドムとゴモラですら見せしめではなかった、実際そう機能はしていない・・・ということでいいのでしょうか。
 

見せしめ・・・?

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 7月 3日(月)08時57分34秒
  宮本様  死後のすくいの否定論者は、最後の審判で命の書が提示されるのは、「第二の復活になった人に、『お前たちは神の国に入れないんだぞ。お前たちはすべて火の池なんだぞ』と全人類の前で見せしめにするために行うのだ」と、信じられないような改釈をする人がいます。なんでそのように読めるのか不思議に思って聖書を読んでいたら、ユダ7節が見つかりました。否定論者は、おそらくこれらの箇所をヒントにして、こうした暴論改釈をしているものと思われます。
聖書というのは、これが書かれた当時の人が、ごく普通に素直に読んでどのように理解できるかを第一に考えて読むものだと思います。それが聖書の基本的な読み方です。黙20:11~15をごく普通に素直に読んで、否定論者のように読めるでしょうか?どう考えても読めませんね…否定論は、明らかな恣意的改釈と信じられないような強引な読み込みのオンパレードだと思います・・・
 

全地の裁き手が立ち上がる時について。

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 6月27日(火)19時54分51秒
  キリスト教会(神学)の教えでは、
2000年前にイザヤ書61章が成就したことになっていますが、
イザヤ書61章とルカ4章16~19節と比較すると解ります。


イエスはイザヤ書の61章2節の途中で読むのをやめました。
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-1.html

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 

お金について

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月26日(月)11時55分1秒
  お金について思うことがあります。聖書には「空の鳥はまくこともたがやすこともしないのに主が養ってくださる。ましてやあなた方は鳥よりずっと価値あるものではないか」と書いてあります。しかし歴史を見てみますと・・・申し訳ないのですが私はキリスト教の歴史と人物史を知りません・・・たとえば道元は中国で悟りを許されて日本に帰ってきてから伝道をしますが迫害され、越前に逃れて永平寺を建立します。しかし寺の経営には大変苦労したと聞いています。彼だけでなく栄西も建仁寺の経営にこれまた苦労していたらしいです。禅だけでなく浄土真宗も蓮如が成人したばかりの頃はすっかり零落していて組織としては壊滅寸前だったそうです。どうしてなのでしょうか。彼らはキリスト教徒ではなかったですけれど当時の日本の民衆や貴族や武士などと比べればずっと神に近い人達だったはずです。どうして神は彼らに貧乏をさせたのでしょうか。

>信者様
うーん・・・少なくとも私にはなにがなんだか。これは聖書に対する質問というか神学的問題といったところですか。

>よしゅあ様
へえ「見せしめ」なんて概念があるんですね。初めて知りました。非常に恐ろしいです。そういえば旧約聖書には「主は熱情の神、報復を行われる方」といった記述がありますけど、そうした祟りをなす者とでもいうべき神のイメージはキリストのイメージとはまた違うもののように思えます。
 

敵はいつまで誇るのでしょうか

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月24日(土)16時42分30秒
  私の質問は要領を得ないようです。なんか世間話でもしましょうか。

誰にとっても同じかも知れませんが、私の身の回りでも神への道を断ち切った人間、信仰への可能性を排除した人間、霊という考え方を捨てた人間は非常に強力です。だってしょうがないだろう、神などいないし信仰も救済もただの考え過ぎだ、結局はそういうあやふやなものを信じない人間が勝つんだ・・・まさに「神への恐れは眼中にない」です。そして彼らには勝てません。何も感じない人間というのは本当に強いのです。信仰を確立した人間には災難があっても苦難はありません。逆に信仰を殺害した人間にも災難があっても苦難はありません。というのも苦難というのは「神はどこだ!?神はいないのか!?」というものだからです。彼らは不法を友としています。そこには後悔も迷いも、恐怖も不安もありません。むしろ不思議な力に守られているかのように、獅子が進むかのように生きています。本当に聖書にあるように「全地の裁き手」が立ち上がる時は来るんでしょうか・・・これは世間話と言うか愚痴ですね・・・

>信者様
うーん・・・少なくとも私にはなにがなんだか。これは聖書に対する質問というか神学的問題といったところですか。

>よしゅあ様
へえ「見せしめ」なんて概念があるんですね。初めて知りました。非常に恐ろしいです。そういえば旧約聖書には「主は熱情の神、報復を行われる方」といった記述がありますけど、こうした祟りとでもいった神のイメージはキリストのイメージとはまた違うもののように思えます。
 

聖書塾スタート

 投稿者:レムナント出版  投稿日:2017年 6月20日(火)21時10分47秒
  ●月刊 久保有政 (聖書塾)スタート!
 ビデオ(web)や直接受講で学べる
 「世界情勢」「歴史」「経済」など、あらゆる分野を網羅し、毎月ひとつのテーマにしぼり、久保有政氏(レムナント誌主筆)による「久保理論」をレクチャー。そののち受講者の質問にも答えていく「久保塾」とも言い換えることのできる「月刊 久保有政」。セミナー修了後は久保氏を囲んでの懇親会も開催(一般人のための聖書塾です)。
 どこでも学べるWEBビデオ受講と直接受講が選べます。
 詳細・申込: https://mugenju.com/content/?id=3473

●VIP 「日本文化と聖書」講演会
 (日本文化の土台を形成した当方古代キリスト教徒
  神道と仏教の儀礼行事に残る聖書の教え)
 7月12日および19日 夜6:15~8:30 東京:お茶の水OCCビル416号室にて 講師:久保有政
 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/chirashi1.pdf

●月刊レムナント(聖書解説誌) 発売中
 7月号(内容): 米朝もし戦わば 織田信長は古代イスラエル人の子孫だった 漢字が語る聖書の教え、 あなたの教会でもできる過越の祭 他。
 紙版 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/eremback.htm
 PDF版 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/eremback.htm#PDFban
 kindle版  http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/remnantnew.htm
 

永遠の見せしめ・・・?

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 6月19日(月)21時23分25秒
  ユダ7「永遠の火の刑罰」「見せしめ」やペテロⅡ2:6「ソドムとゴモラの見せしめ」は、文字とおりに読むのではなく、「徹底的な破壊」を意味する象徴的表現との見解があるようです。
たしかに、ソドムとゴモラを焼いた火はとっくの大昔に消えてしまっていて、決して永遠に燃えているわけではありません。また、見せしめというからにはその廃墟が後世にもずっと残っていなければ見せしめになりませんが、とっくの大昔に死海の底に沈んでしまっていて、具体的な場所はわかならくなっています。これでは見せしめになりません。
聖書のほかの箇所をみましても、イザヤ34:10のエドムを焼いた火の煙はとっくの大昔に消えていて、決して永遠にあるわけではありませんし、黙19:3の大淫婦が焼かれる火も、新天新地ではなくなっているはずなので、決して永遠にあるわけではありません。
そうしますと、ソドムやゴモラも、徹底的に破壊されるという裁きを受けましたが、必ずしも永遠の地獄行きとは限らないようにも読めそうです。
すべては、最後の審判になってからでなければ明確なことは言えないことですが・・・
 

質問

 投稿者:信者  投稿日:2017年 6月18日(日)21時11分32秒
  質問ですが、異端の「サベリウス主義」(サベリウスの様態説)と「父神受苦説」(または「天父受苦説」)とは同じですか?
下記のリンク先サイトでは、両者の内容は違うので混同してはならないことが示されています。
しかし一般的には、両者がよく同じものとして言われていると感じます。参考までに、本当のところはどうなのか、教えて下さい。
http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda4/13cpLgojjl9Qs45543.htm
 

ルシファーとサタン

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月14日(水)12時23分16秒
  ルシファーとサタンはどう違うのでしょうか。ルシファーは『失楽園』の主人公であり七つの大罪において傲慢を象徴する存在です。サタンはヨブを試みた存在であり、福音書ではユダが乗り移った対象です。私自身の感覚から言うのですがユダは「傲慢」と言うよりかは「逃避」とか「臆病」といった言葉を割り当てた方が適切であるような気がします。ユダはその弱さからサタンに魅入られてしまった存在であるというのが私が今のところ持っている認識です。キリスト教から離れますが仏教世界における滅びの子であるダイバダッタは傲慢を絵に描いたような人物です。彼はその傲慢さから道を踏み外し、罪を犯し、生きたまま地獄に落とされます。ですのでダイバダッタはルシファーと重なります。サタンにとってダイバダッタは何者だったのでしょう。そしてルシファーにとってユダは何者だったのでしょうか。  

(無題)

 投稿者:高砂  投稿日:2017年 6月10日(土)10時00分9秒
  聖書には、「恐れるな」と365買い回も言われています。
新約聖書の要諦は、真のキリスト者であれば内に神が内住されている。

神は、ペテロに「これに聞け」と一喝。
これとは、当然にイエスのことです。
イエスは聖霊によって内住されてます。
なので、「外に求めるものは何もない」と、疑う余地はなし。
 

インサイダー・ムーブメント

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 6月 4日(日)19時54分55秒
  貴誌6月号に掲載されていましたインサイダー・ムーブメントですが、まったく正しいことなのかどうかは別問題として、私も決して否定的にはみません。むしろ、大勢の日本人が、神道や仏教を信じながらでもいいので、まずはキリストがどういうお方なのかを知って、キリストを信じてすくいを受けられるようになることを切に願います。
海外でも、たとえばイスラムの信仰を捨てたとみなされるとどんな迫害も受けるかわからない国もありますので、イスラムを信じつつもキリストを信じてすくいを受けられる人が多くあらわれることを祈りたいと思います。
 

しつこいようですが・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月27日(土)12時38分14秒
  また主の日について質問させていただきます。
あれからインターネット上をめぐって終末思想やそれに基づく情報を参照してみたのですが、どうやら現代はこれまでにないほどいわゆる世界の終わり、神の介入、物質主義の終焉、悪の清算といった出来事が待望されているようです。私は前の書き込みの中で「この閉塞感に満ちた状況を打開してくれるならもう何でもいいと思わないこともありません」と言いましたが多くの人が同じような感覚を持っているようです。しかし気になるのは聖書に「その日その時がいつになるかは誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ父のみがご存じである」と書いてあることです。天使ですら知らないことが私達人間にわかるものでしょうか。なんとなく、天使達は神様からその日がいつ来るかを事前に知らされていて準備に余念がない・・・というイメージを持っているのですがそれは間違っているのでしょうか。しかし天使達が「神様が何かをするだなんてそんなことはないから大丈夫」なんて思っているはずがありません。久保先生や皆さんを疑うわけではないのですが「その日が近づいている」と思ったり言ったりすることが人間には許されているのでしょうか。聖書には「枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、あなたたちは夏の近いことを知る」と書いてありますがそれは「知識」とも言え「予想」とも言えます。私達はその日が近いことを本当に知っているのでしょうか。

>よしゅあ様
これはどうも。共感していただけるとは幸いです。そうですね、私も自分にできることをやります。
 

神の国への希望

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 5月22日(月)20時14分53秒
  宮本様のお気持ちも理解できます。最近は、内戦や核開発や戦争のうわさなどが多く、私も怖くなってきました・・・私たちは、自分一人の力だけでは、こうした試練に勝つことは困難なように思われます。
私たちは、毎日、キリストが私たちと私たちの家族に支えと安全と勇気をお与えくださることと、キリストの再臨に希望を持ち続けることを、祈り続けていくことが大切であると思います。
 

そうなんですか

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月14日(日)07時39分45秒
  >久保先生
そうなんですか。私の場合その日に対して絶望的になったり恐れたりするのではなくてある程度は楽観的になるべきなんですね。そしてその日は「破滅」ではなくて「試練」なんですか。勇気を持つようにします。それからその日を望む気持ちがあってもそれは不健康ではなくて自然であるということですか。少し安心しました。そして勉強になります。
 

Re:主の日

 投稿者:久保有政  投稿日:2017年 5月11日(木)09時21分10秒
編集済
    この世が終末をやがて迎えるのは、この世が自らの罪のゆえに自滅の方向に向かっているからです。確かに試練なくこの世が続いていってくれればよいと思うのが人間ですが、聖書はやがてこの世は悪と罪が最高潮に達するときを迎えると預言しています。それは避けられません。そうして最高潮に達して、もはやどうしようもない状態になったとき、神はこの世に介入し、地上の悪に終止符を打たれます。それか主の日です。それまでのあいだ主は、ひとりでも多くの人が神に立ち返ることを望んでおられます。神はそののち、神を愛する人々に、至福と永遠の命の神の国を継がせられます。
その終末の試練の時は、ふつうの人にとっては耐えることの困難なときですが、神を信じる人には「栄光の御霊」が宿ると述べられています。主はその試練を乗り越える力を与えてくださいます。心配はいりません。弱い人も強められます。それは主の力を体験するときになります。試練の向こうには栄光の至福の国があります。ですから神を待ち望む人にとってその日は、恐れるべきものでなく、むしろまちのぞむべきものです。

 

主の日

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月 7日(日)19時49分24秒
  せわしないですがまた質問させて頂きます。
久保先生はコンテンツの中で「現代がすでにその時を間近にひかえていることは、ほぼ確実と思われます」と仰っていますが、私はその日を生きのびる自信がありません。私は「主の日」「大いなる日」「恐るべき日」が臨んだら殺されると思っています。実際聖書には「誰がその日に耐ええよう」と書いてあります。それとも間近に迫っている「その時」と「主の日」は違うのでしょうか。主の日においては「わざわいだ、主の日を待ち望む者は」と書いてあります。その日はこれまでなくこれからもないほど過酷なものになると書いてありましたので少なくとも歴史上にはまだその日は来ていません。たしかにこの閉塞感に満ちた状況を打開してくれるならもう何でもいいと思わないこともありません。しかし心の中ではなんだかんだ言って何も起こらず、このぬるま湯のような日常の延長線上に神の救いがあるのではないかと甘い考えをしているのです。創世記における方舟の伝説ではノアは救われましたがそれ以外はみんな消されてしまいました。主の日が望むのは何のためなのでしょうか。そしてその後の世界はどうなるのでしょう。単純に考えるのならキリストによる神の国が実現するのだと思います。しかし、私は自分もこの世界もその恐るべき日に耐えられるとは思えないのです。選ばれた人だけを救うのが神の御心なのでしょうか。
 

久保先生へ

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 5月 6日(土)17時44分27秒
  今日は久保先生の、旧約時代の「よみ」における実話を読んで目から鱗でした。

「ラザロと金持ち」のこの話は"たとえ話"と呼ばれることもありますが、私はこれを"たとえ話"とは考えておりません。
なぜなら、キリストはたとえ話を語られるとき、必ず「ある人が・・・・」と言われました。
「ぶどう園のたとえ」(ルカ二〇・九)でも、
「タラントのたとえ」(マタ二五・一四)でも、「宴会のたとえ」(ルカ一四・一六)でも、「ある人」と語られています。
しかしキリストは、この「ラザロと金持ち」の話においては、「ラザロ」「アブラハム」と、具体的人名をあげられました。
具体的人名が出てくるのに、どうしてそれが"たとえ話"であり得るでしょうか。

キリストが、かつて「栄華をきわめたソロモン」について語られたとき(マタ六・二九)、それは実話でした。
キリストが、「神によって滅ぼされたソドムとゴモラ」について語られたとき(マタ一〇・一五)、それは実話でした。
キリストが、「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜んだ」(ヨハ八・五六)と語られたとき、それは実話でした。
ですから、キリストが「ラザロ」「アブラハム」と実名をあげて語られたとき、それは当然、実話であったと私は考えています。
それは、旧約時代の「よみ」における実話なのです。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm

先週も東久留米の教会に行ったら目から鱗が取れました。
これからは、私の伝道方法を方向転換していきます。
色々とありがとうございます。 感謝です。<m(__)m>
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/666-7.html

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 

へえ!

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月 6日(土)16時30分29秒
  ご返答まことにありがとうございました。少し難しかったですがコンテンツも一読しました。
よみの世界というものがあるのですね。そこで人間はもう一度、幸いにとは言えないようですが時間と猶予が与えられるわけですか。非常に興味深い他界観です。
 

Re;質問があるのですが

 投稿者:久保有政  投稿日:2017年 5月 6日(土)10時59分32秒
   ご質問ありがとうございます。
 人間が死後行く場所には、天国、よみ、地獄の3つがあります。
 よみと地獄は混同されてきましたが、別の場所です。ダンテの時代に、よみと地獄は混同されていましたので、ダンテの書いたものは参考にはなりません。
 信仰を確立することなく、特に善いことをしたわけではないが特に悪いことをしたわけでもない方々は、よみに行きます。よみは幾つかの場所に分かれており、生前の行いに応じて、それぞれの場所に行き、そこで人生を振り返るときを与えられます。
 また福音を聞く機会も与えられます。このよみでの機会を、セカンドチャンスといいます(ファーストチャンスはこの世の生です)。
 そして世の終わりの最後の審判のときに、よみの人々はすべてその審判の法廷に出されます。よみの人々の中で、すでに神に立ち返った人々は、新天新地の神の国に入ります。一方、神に立ち返ることのなかった人々は最終的に地獄へ行きます。地獄は世の終わりの最後の審判以降のための場所です。
 詳しくは下記をご覧くださるといいと思います。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm
 

質問があるのですが・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月 6日(土)08時51分51秒
  初めまして。私は正式なキリスト教徒ではないのですが聖書を日常的に読む人間です。
質問があります。この世において特に善いことをしたわけでもないが、特に悪いことをしたわけでもない人間というのは最終的にどのような運命をたどることになるのでしょうか。聖書には「天国に入るどんな小さな者でも彼(洗礼者ヨハネ)よりは大きい」と書いてあります。またきちんと読んだわけではないのですがダンテの『神曲』には「世間において高徳とされていながらもキリストを信じなかった者が落ちる地獄」があると聞きます。これらから論理的に考えれば特に善でも悪でもない人間も地獄に落ちなければならないということになります。たしかにいくらきちんとした社会生活を送っていても良心も罪悪感もなく神や人間を不愉快にさせてばかりいる人は地獄に落ちる、落ちてほしいと思います。しかしたとえ信仰を確立できていなくても人間として最低限の節度をもって生活をしている人なら地獄で永遠に苦しむなどという目に遭わなくてもよいのではないかと思うのです。そのあたりはどのように考えるべきなのでしょうか。
 

私の故郷エデンの園

 投稿者:チビ  投稿日:2017年 4月25日(火)21時05分13秒
  今現在黒いカラスが世界中を飛びまっています、いつ地上に天国が来るのでしょうか、
洗礼を受けたクリスチャンでもサタンの支配から抜け出せずいる。(この世に勝利していない)
 

youtube動画

 投稿者:はじめての者  投稿日:2017年 4月18日(火)14時51分3秒
  JJアカウントでUPされていた動画が全部見れなくなってるのはyoutube側の圧力ですかね?
悲しいです。
 
    (管理人) youtubeの聖書講義動画は再開されました。
よろしくお願い申し上げます。
https://www.youtube.com/channel/UCc0kvWmNEt5fINhtYdEm-9A
 

イースターについて

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 4月16日(日)21時03分45秒
  イースターおめでとうございます。
キリストの復活こそ、私たちの最大の希望です。
ところで、正教会のイースターは、カトリックやプロテスタントとは異なる日と聞いていますが、なぜ東と西とで異なるのでしょうか?
 

家族のすくいんために

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 3月25日(土)07時56分41秒
  他の皆様は、ご自分の家族を信仰に導くためにどのような工夫をなさっていらっしゃいますでしょうか?
使徒16:31などを根拠に、自分が信仰を持っていれば自動的に家族もすくいを受けると考えている人もおりますが、この箇所がそこまで意味するようには思えないのですが…

 

雑感

 投稿者:小林まこと  投稿日:2017年 3月 8日(水)13時39分25秒
  煎れたてのコーヒーを飲み
そういえば今朝の新聞の訃報にスジャータの生みの親の方が亡くなったことを想いだした。ラジオから時報と共にブランド名を宣伝する戦略
スジャータが一時をお知らせします。車乗りなら知らないのはモグリだ…

乳製品か!?むかしカルピスが好きで夏は麦茶とカルピスだったナァと沁々思い出した。あのニグロの登録で揉めたっけ!?オズモンド・ブラザースって兄弟シンガーが宣伝していたっけ、アンディウィリアムスとかパットブーンもいたいた!?記憶違いでないなら パットブーンはあのディビッド・ウィルカーソン牧師の自伝的実話を基づく「十字架と飛び出しナイフ」の映画に主役で出演してましたね。
コーヒーからスジャータ、カルピス、そして十字架と飛び出しナイフか

ニグロの登録で揉めたと言えば幼い時分読んだ「ちびクロさんぼ」
たしか岩波書店が某団体からクレームがあって、最近ようやく解決したとか

何て事はない有名な似非団体からだったようだ…

人種差別だどうのこうの!?在日韓国系のヘイトスピーチって物も眉唾だった。疑えばキリがないが…
そんなこんなで311が今年も巡ってきましたね。岩手の大川小学生はじめ 地震と津波、原発事故で今も避難している方々を思いキリスト者として祈ります。

 

日本人が、いにしえに立ち返ることを願って

 投稿者:加藤寛隆  投稿日:2017年 2月26日(日)10時16分46秒
  私は久保先生の御著書に教えられ、そして励まされて、日本に古代イスラエルの人々が来て、日本神道を作ったのだということを、思い続けながら、いつか、日本神道のなかにある「清め」の心が、実は、キリスト教の「洗い清め」と同じ心なのだと今の時代の日本の人々が知り、いにしえの(奈良時代以前の)神の道に、日本の多くの人々が「立ち返る」ことができることを願いながら、この十年間あまり、祈り、そして様々に物事を考えたりもしてきました。
https://sites.google.com/site/josephmariahk/joseph-maria-h-k
私は日本の仏教も、その本質は「清め」なのではないかと思っています。
日本人の多くは、神社や寺院での「御祈祷」を、みずからの切実な「願い」を込めて、真剣に受けています。
例えば、犬山成田山のホーム・ページには、「人々のむさぼり、いかり、おろかさといった心の迷いをお不動さまの智慧の炎で焼きつくし、願望を清め、すみやかに成就するよう祈念します。」と書かれています。
http://www.inuyama-naritasan.or.jp/grace.html
ここで、「お不動さま」とは、「この宇宙のなかの、動かざる、不動の中心」を指し、そして真言密教において「宇宙の根本存在」だとされる毘盧遮那仏(大日如来)の現れ方の一つ、だと私は理解しています。
つまり、少なくとも日本の真言密教においては、「この宇宙そのものであるほどの存在」が意識され、そのお方の御力を受けて、「願いが清められる」ことを、多くの日本の人々が「心から」願っているということだと思われます。
「唯おひとかたの、おおもと(根本)の神」を思うことが、奈良時代以前の日本神道の在り方だったと、丹後の元伊勢籠神社の先の宮司さまがお語りになったと聞きます。
つまり、日本神道の根本が「絶対神」(天の御中主の神、豊受の大神、国の常立の神)への信仰にあり、そして、日本仏教の大元が「絶対仏」(大日如来、宇宙の根本存在)への信仰にあるのならば、日本人は、事実上、「この世を御造りになった、唯御ひとかたの神」を、心の底ではずっと信仰して来た、ということかと思われます。
私は、いつの日か、日本の多くの人々が、「神さま」や「仏さま」が、実は、「イエスさま」のことだったのだと、「いにしえに、立ち返る」日が来ることを、願ってやみません。

https://sites.google.com/site/josephmariahk/joseph-maria-h-k

 

久保先生へ。

 投稿者:漆畑典子  投稿日:2017年 2月 6日(月)09時26分41秒
   レムナント3月号 読者からの手紙の(リンゴさん)と同じ思いでおります。
、、、、久保先生の背景には福音のキリストがおり神様が働いていらっしゃる、、
素晴らしいです、、。   今日も聖書一日一章より新しい一日の始まりです。 昨年11月
よりの聖書一日一章。私事にて心、苦しくなる事未だ多々起こります。その日を超え、翌朝
また久保先生の聖書一日一章のご解説に出会い、温かい励ましを頂いて一日ずつゆっくりと
歩んでおります。  ありがとうございます。
 

ソドムとゴモラ

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 2月 5日(日)22時14分33秒
  ユダの手紙7節のソドムとゴモラの受けている「『永遠の』火の刑罰」は、『非常に長い期間』と訳すことも可能でしょうか?
マタイ11:24やルカ10:12によりますと、ソドムとゴモラより重い罰を受ける人々もいるようです。
一番重い罰が地獄行きでしょうから、ソドムとゴモラは、「非常に長い期間」の罰を受けているけれど、地獄行きとまではいかないようにも読めそうです。
すべては、最後の審判になってみないと明確なことは言えませんが・・・
 

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