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日本人が、いにしえに立ち返ることを願って

 投稿者:加藤寛隆  投稿日:2017年 2月26日(日)10時16分46秒
  私は久保先生の御著書に教えられ、そして励まされて、日本に古代イスラエルの人々が来て、日本神道を作ったのだということを、思い続けながら、いつか、日本神道のなかにある「清め」の心が、実は、キリスト教の「洗い清め」と同じ心なのだと今の時代の日本の人々が知り、いにしえの(奈良時代以前の)神の道に、日本の多くの人々が「立ち返る」ことができることを願いながら、この十年間あまり、祈り、そして様々に物事を考えたりもしてきました。
https://sites.google.com/site/josephmariahk/joseph-maria-h-k
私は日本の仏教も、その本質は「清め」なのではないかと思っています。
日本人の多くは、神社や寺院での「御祈祷」を、みずからの切実な「願い」を込めて、真剣に受けています。
例えば、犬山成田山のホーム・ページには、「人々のむさぼり、いかり、おろかさといった心の迷いをお不動さまの智慧の炎で焼きつくし、願望を清め、すみやかに成就するよう祈念します。」と書かれています。
http://www.inuyama-naritasan.or.jp/grace.html
ここで、「お不動さま」とは、「この宇宙のなかの、動かざる、不動の中心」を指し、そして真言密教において「宇宙の根本存在」だとされる毘盧遮那仏(大日如来)の現れ方の一つ、だと私は理解しています。
つまり、少なくとも日本の真言密教においては、「この宇宙そのものであるほどの存在」が意識され、そのお方の御力を受けて、「願いが清められる」ことを、多くの日本の人々が「心から」願っているということだと思われます。
「唯おひとかたの、おおもと(根本)の神」を思うことが、奈良時代以前の日本神道の在り方だったと、丹後の元伊勢籠神社の先の宮司さまがお語りになったと聞きます。
つまり、日本神道の根本が「絶対神」(天の御中主の神、豊受の大神、国の常立の神)への信仰にあり、そして、日本仏教の大元が「絶対仏」(大日如来、宇宙の根本存在)への信仰にあるのならば、日本人は、事実上、「この世を御造りになった、唯御ひとかたの神」を、心の底ではずっと信仰して来た、ということかと思われます。
私は、いつの日か、日本の多くの人々が、「神さま」や「仏さま」が、実は、「イエスさま」のことだったのだと、「いにしえに、立ち返る」日が来ることを、願ってやみません。

https://sites.google.com/site/josephmariahk/joseph-maria-h-k

 
 

久保先生へ。

 投稿者:漆畑典子  投稿日:2017年 2月 6日(月)09時26分41秒
   レムナント3月号 読者からの手紙の(リンゴさん)と同じ思いでおります。
、、、、久保先生の背景には福音のキリストがおり神様が働いていらっしゃる、、
素晴らしいです、、。   今日も聖書一日一章より新しい一日の始まりです。 昨年11月
よりの聖書一日一章。私事にて心、苦しくなる事未だ多々起こります。その日を超え、翌朝
また久保先生の聖書一日一章のご解説に出会い、温かい励ましを頂いて一日ずつゆっくりと
歩んでおります。  ありがとうございます。
 

ソドムとゴモラ

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 2月 5日(日)22時14分33秒
  ユダの手紙7節のソドムとゴモラの受けている「『永遠の』火の刑罰」は、『非常に長い期間』と訳すことも可能でしょうか?
マタイ11:24やルカ10:12によりますと、ソドムとゴモラより重い罰を受ける人々もいるようです。
一番重い罰が地獄行きでしょうから、ソドムとゴモラは、「非常に長い期間」の罰を受けているけれど、地獄行きとまではいかないようにも読めそうです。
すべては、最後の審判になってみないと明確なことは言えませんが・・・
 

なるほどなるほど

 投稿者:文清  投稿日:2017年 1月31日(火)09時24分31秒
  参考になりました。ありがとうございます。  

イスカリオテのユダ

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 1月28日(土)09時22分53秒
  確かにユダはキリストを裏切っていますが、ペテロもキリストを裏切っているのに許されています。むしろ主は信仰がなくならないように祈ってくださってさえいます(ルカ22:32)。他の使徒も肝心なときに逃げ出してしまったのですから、程度の差こそあれ主を裏切ったと言えなくもありません。しかし、全員許されています。主はペテロをサタン呼ばわりされて厳しく罵倒されていることもあります(マタイ16:23)。サタンは許されない存在ですし、主はペテロをサタンと同一視するかのように厳しく言われています。しかし、主はペテロを許しています。
そうしますと、ユダだけ許されないのはかえって不自然なようにも思えます。よみで本心から十分に悔い改め、その悔い改めが主に認められたなら、ユダも許しを得られそうに思えます。
すべては、最後の審判のときにならないと断言できないことだとは思いますが・・・
 

自殺者は復活しない?はやはり嘘

 投稿者:文清  投稿日:2017年 1月26日(木)22時12分24秒
  よく自殺した人は天国から締め出され黄泉の暗い世界に放置される?
聖書的には何の根拠ないことが読み物サイトでよくわかりました。神は各々のケースにより裁かれるのであり情状酌量の余地がある場合が大半なんですね?

それにしても新たな疑問自殺したサウル王なら問題ないとしても主を裏切ったユダの場合
生まれて来なかったほうが良かったと酷しい御言葉、ユダの場合は復活は有り得ないのでしょうか?救いは絶たれてしまったのでしょうか?
 

はや様

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 1月26日(木)12時40分10秒
  神様は愛です。とても哀れみ深いお方です。
主と父なる神様に対する冒涜は許して下さいます。
しかし、むやみやたら冒涜してはいけないですよね。

それと、人は生まれた時から死に向かって生きているので必ずその日が来ます。
恐れていても、必ず来るのだから、恐れること自体が不利益ですよね。

主は全てを益に変えられるお方なので、
ハズレが出ても、はずれに感謝していると当たりも出るのです。

「主の御業は時にかなって全てが美しい。」です。

また、私は死が全く怖くないです。
主の為に死ねるのなら、本当に幸せだと思っているので、
下の方法で伝道をしていますが、神様は計画を以って世界を動かしています。

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/katudou.html

http://www.jesus4-25.com/yugi/77-77.html

 

神を信じてスマホゲームで欲しいキャラが出ること祈って引くと出なかって神に向かって出なかったなどというと陰府行きでしょうか天国でしょうか

 投稿者:はや  投稿日:2017年 1月25日(水)20時29分32秒
  まだ地上で生きていた時に神は信じていたけど神様を信じてスマホゲームなどでガチャなどした時に神を信じて欲しいキャラが出ることを祈って引くと出なくてそれで神に向かって拗ねたりすると陰府でしょうか?
死ぬのが怖いです
 

ユダ5~7について・・・

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 1月23日(月)07時02分58秒
  いつもご教示ありがとうございます。
新共同訳ユダ5節の「滅ぼされた」という箇所は、原語でも同じ意味なのでしょうか?
ユダ7節は、ソドムやゴモラの人々は、原語でも、”永遠の刑罰・見せしめ”となっているのでしょうか?
もしそうだとしますと、ソドムやゴモラの人々は、神から永遠に悔い改めが認められないということになるのでしょうか?
 

日本の神社の巫女さんいついて

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 1月21日(土)21時06分10秒
  日本の神社とユダヤ教の神殿との類似性についてよく聞かれます。
日本の神社には巫女さんがおりますが、ユダヤ教の神殿でも巫女さんのような人がいるのでしょうか?
神前結婚式では巫女さんが舞を舞ったりします。ユダヤ教でも同じようなことがあるのでしょうか?
 

自死について

 投稿者:文清  投稿日:2017年 1月17日(火)09時08分21秒
  有名なカルト対策活動家の村上密氏の話では
自殺或いは自死に関して
聖書では「罪」とする根拠はありませんよ。と提言されています。改めてレムナントとしては自死は如何なのでしょうか?お訊ねいたします。
 

有難うございました

 投稿者:バニー  投稿日:2017年 1月12日(木)07時27分37秒
  本日「人生の目的」のページを読みましたら、先日の質問、創造の目的について書かれていました。
どうも有難うございます。
 

創造

 投稿者:バニー  投稿日:2017年 1月11日(水)05時21分39秒
  とても久しぶりにこのサイトへアクセスしたら「再開」されたようでとても嬉しく思いました。引き寄せられたかのようなタイミングでページに訪問しましたのもご縁でしたので、こんな基本的な質問で申し訳ありませんが、教えて下さい。

神様は何故人を創造されたのでしょうか?何故「ご自分に似た姿に人」を創造しないといけなかったのでしょうか。ある読み物で、「死後の世界には私達が想像を遥かに超えた何かかが待っている」とありましたが、それが聖書いう「永遠の世界」とするならば、何故それを必要とされたのでしょうか?

 

聖書一日一章

 投稿者:漆畑典子  投稿日:2017年 1月 4日(水)06時46分36秒
  おはようございます。 今朝もレムナント 聖書一日一章 より今日がはじまります。
 感謝です。 今日の一章を静かに朗読します。 様々を超え尊い聖書に出会えさせて頂き一年余り、、
手探りでの聖書との対話の自分に、久保様のご解説がとてもわかりやすく、そして一章一章への深い思いが
心に染みます、、。 本当にありがとうございます。
 掲示板での皆様との出会いも、日々のわたしの喜びです。 ありがとうございます。
 
 

始めまして。中村美智子といいます

 投稿者:中村美智子  投稿日:2017年 1月 3日(火)03時17分39秒
  キリスト教読み物サイトを興味深く読ませていただいています。
はじめて知ることがとても多いです。
ありがとうございます。
 

現在の日本における宣教について

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2016年12月29日(木)18時35分16秒
  私はいままで口下手だから伝道には向いていないと考えていました。
しかし、マザーテレサの「宣教とは説教することではありません。あなたの存在そのものが語りかけるのです」という言葉に触発されました。うちの奥さんからも「話し好きのあなたがとても口下手とは思えない」とも言われて、案外自分にも伝道ってできるものなのかな…?と考えはじめているところです。ほかの一般信徒の皆さんは、どのように工夫して宣教されていらっしゃいますでしょうか?
ブログを書いたりしている方もいらっしゃいますでしょうか?
 

お訊ねいたします

 投稿者:カイム  投稿日:2016年12月24日(土)21時27分35秒
  契約の箱
いわゆる聖なるアークのことですけど
ダビデ王の時代にエルサレムに移動の際に
倒れかけた箱を押さえる為に禁断タブーにも関わらず触れてしまい電撃に撃たれて亡くなった逸話ありましたよね
2ちゃんの聖書初心者の方がどうしても納得出来ないと騒いでおられるのですが
納得のゆく答え~すなわちなぜ彼は殺されなければならなかったのか
明確な解答よろしくお願いいたします。

メリークリスマス!皆さん。
 

伝道の思い出

 投稿者:杉菜まゆか  投稿日:2016年12月23日(金)18時48分3秒
   私も昔、繁華街でゴスペルをアカペラで歌っていました。その頃は、風俗雑誌配布が流行っており、その元締めのコワい系の兄さんからじろりとにらまれたりしましたが、それにもめげずゴスペルを歌っていると拍手をしてくださったりする若者がいました。それから半年後、風俗浄化運動が起こり、風俗雑誌配布が消滅しました。これは決して、偶然ではなかったように思います。また、繁華街の若者のバーのようなところで、伝道をしたこともあります。家庭の深刻な悩みを話してくれる人が何人かいました。心のオアシスになっていたのかもしれませんね。
 伝道は、出来るうちにしておくべきですね。
「私(神)は伝道をしている人が、乞い歩くのを見たことがない」(聖書)
 また、私はリストラの憂き目にあったとき、伝道をすると必ず仕事が見つかったことを感謝します。
 
 

徳さま

 投稿者:大城勝  投稿日:2016年12月 4日(日)20時58分37秒
  お互いにキリストの器官として頑張りましょう。_(._.)_

http://www.jesus4-25.com/yugi/77-77.html

 

大城様

 投稿者:  投稿日:2016年12月 3日(土)00時22分6秒
  主・イエス様は、神の愛を伝えたいと思う気持ちをとても喜ぶのではないかと思います。有難うございます。BY 徳  

徳さま

 投稿者:大城勝  投稿日:2016年12月 2日(金)08時13分51秒
  素晴らしいですね。
人前でイエス様を告白しない信徒が多い中、
駅前で一人で賛美することは凄い勇気です。
私も頑張って主を宣べ伝えていきます。

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/666-7.html

 

路上賛美

 投稿者:  投稿日:2016年12月 1日(木)23時36分14秒
  この間、駅で一人で、ギターと看板を用意して、クリスマスツリー近くでクリスマス賛美してみた。
何人かの人が話しかけてくださった。
あまり迷惑にならないようにマイクは使わなかったが、よく賛美は聞こえたようだ。
私の知ってる教会と牧師も紹介した。
この世に救い主の主・イエス様がお生まれになってくださった事感謝です。
BY徳
 

行いと信仰

 投稿者:  投稿日:2016年11月17日(木)22時38分44秒
  私は信仰生活が長いのですが、行いの悪い信徒と良い信徒がいるのを最近感じます。この間牧師がメッセージしない日があってもよい教会に行きました。信徒は牧師に従うだけで自分で主体的に聖書を読んでいない
ように感じます。自分たちの教会のありかたが正しければ、出エジプトのパロのようにかたくなになる事はないと感じました。
信仰は行いとセットだと思います。
行う事によって救われる訳でもないし、行いによって救いにあずかろうとしたり、行いを救いの基盤にして高慢になっていった信徒を何人かしってます。
恵みによる信仰は儀と平和と愛を持つ子とであると信じています。BY徳
 

掲示を読んでの感想

 投稿者:北海道のシャケ  投稿日:2016年11月14日(月)21時40分34秒
  ローマ書8-28にあるように神は万事をなして益となす。に異論を唱えるつもりはありませんがキリストの姿勢はそれだけではないように思われます。障害を持って生まれた者,弱い立場の女性や子供たち等当時の社会の底辺で苦しんでいた人々のところに進んでキリストは行っていたと思います。そんなキリストの基本姿勢にいつも感動させられている一人です。  

(無題)

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2016年10月30日(日)21時57分31秒
  鳥取や熊本で大規模な地震がありました。イタリアでも大きな地震があったようです。横浜で小学生が通学途中に車にはねられて短い人生を終えてしまいました…
こうしたとき、私たちが決して忘れてはならないのは、これら災害や事故など不運な人生に苦しんで地上の人生を終えてしまった未信者のすくいのために祈ることだと思います。
否定論者の中には、こうした祈りにも悪口を言ってくる人がいるので本当に理解に苦しみます…もし本当に不運な人生に苦しんだ人や自分の家族のすくいのために祈ることが悪いことなら、なぜこうした祈りが隣人愛に反することになるのか、聖書当時の人が十分に理解できるように聖書のどこかに書かれていなければおかしいはずです。なぜなら、初代教会の人も自分の家族や不運な人生に苦しんだ人のすくいを願う気持ちは必ずあったに違いないからです。
また、キリストは、私たちが罪人であったときから私たちを愛してあがないをしてくださいましたし(ローマ5:8)、人の知識をはるかに超える愛の持ち主です(エフェソ3:18~19)。そのキリストが、自分の家族や不運な人生に苦しんだ人のすくいを信じて祈ることで、怒ったり罰したりすることなど絶対にあり得ないことだと思います。
私たちは、否定論者がたとえどんな悪口を言ってこようと、決して臆することなく、未信者だった人のすくいを信じて祈っていきたいと思います。
 

アブラハムのいた場所

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2016年10月28日(金)22時00分32秒
  スタディバイブルの注意書では、ルカ16:19~31のアブラハムのいる場所を天国と勘違いしてしまっています。しかし、アブラハムは地上の人生を終えるとき、「先祖の列に加えられた(創25:8)」とあり、天国に行ったとは書かれていません。孫のヤコブも「先祖の列に加えれらた」(創49:29・33)とありますが、そのヤコブは自分はよみに行くものと理解していましたし(創37:35、42:38)、ひ孫のユダも同様に理解していました(創44:31)。それに、この当時はまだキリストのあがないの前です。なので、アブラハムとラザロのいる場所もやはり「よみ」と思われます。もし天国だとしますと、アブラハムとラザロはキリストのあがないによらずに天国に行ったということになってしまいます。これでは、「キリストのあがないによらなければ誰も天国に行くことはできない」という聖書の教えの根本を否定することになってしまうものと思われます。
よみはそれまでのすべての死者が行っている場所なので、非常に広大な場所だと考えられます。なので、この金持ちはよみで眼を上げたら、(同じよみの)はるかかなたにアブラハムとラザロが見えたので会話をしたというお話だと思われます。
なお、アブラハムなどキリストの昇天前に慰めの場所に行った人は第一の復活になるものと思われますが、そうしますと、昇天後に慰めに場所に行って再臨までに信仰をもった人も、第一の復活になると考えて不自然ではないように思われます。黙示録では昇天後によみに行った人は第二の復活になるように読めますが、私としては第一の復活になるように祈りたいと思います。
 

「光」は比喩ではない?

 投稿者:投降者  投稿日:2016年10月28日(金)16時33分53秒
  御回答をありがとうございます。いくつか確認させて下さい。
それでは、第一ヨハネ1:5の「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」という言葉は文字通りの意味と思ってよいのですね。ここでの「光」は属性か何かを表す比喩とか象徴であるかのように考える必要はありませんね?
そうであるなら、聖書に書かれている「光」は、創造者である神について言われるものと、太陽のような被造物について言われているものとの、2種の意味に区別されるということでよろしいですか?
ちなみに「御顔」というのは比喩であり、存在の「中心」を示しているのですね?擬人的神観を前提としているのですね?
神さまは姿かたちなく目に見えない存在なので、生物の「顔」にあたるようなものがあるわけではないでしょうから、これは比喩とか類比とかいったものですね。そうなると「光」も比喩かなと思いやすいですが、それは上記のとおり、比喩ではなく、神さまはまさに「光」なのですね?物理的な意味での「光」とは違うにしても、闇を照らすなど共通点がある「光」なのですね?
それなら、必ずしも目に見えないわけではないのかなとも思いますが、この光は終末になって神の国に入らなければ、人間には見えないのですか?
 

Re: 神の御顔が光の中心とは?

 投稿者:久保有政  投稿日:2016年10月28日(金)14時58分39秒
   神の光については、 新天新地の箇所で「夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し・・・」と述べられています。
 また神の御顔については、「主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」「御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ」「天も地も御顔の前から逃げ去って」等の言葉が述べられており、御顔は御神の中心であり、神の光の中心でもあると思われます。
 

神の御顔が光の中心とは?

 投稿者:投稿者  投稿日:2016年10月25日(火)06時31分5秒
  なぜ、神の御顔が光の中心だと言えるのですか?それは聖書から言えることですか?  

Re:質問

 投稿者:久保有政  投稿日:2016年10月23日(日)18時29分47秒
  1)「本質」と「存在」は意味の違う観念です。御父・御子・御霊の三位の神は、同一本質であり、一体の存在です。本質は同一、同じであり、存在は一体なのです。それが三位一体論の述べていることです。
「同一」を「同」と訳したほうがいいというご意見ですが、確かに同一より「同」のほうが若干意味が弱いかと思います。しかし上に述べましたように、三位の本質は同一(同じ)、存在は一体というご理解がいいです。
2)黙示録22・3-4に「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」とあります。神の御顔とは神の光の中心でしょう。神のしもべたちは、その光の中心へ、一方向へ目を向けて仰ぎ見ることでしょう。
 

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