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嬉しい知らせです。

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 9月15日(金)19時16分12秒
  シンディ・ジェイコブス師による日本への預言です。

何度聞いても涙が溢れ出てきます。ハレルヤ!
https://www.youtube.com/watch?v=t7PSnCMtxT4&feature=youtu.be

私のページの一番下にも掲載させて頂きました。
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/666-777.html

ハレルヤ! ヽ(^o^)丿

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 
 

日本を愛するキリスト者の会

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 9月13日(水)07時48分58秒
  10月14日に講演があるとのことで、私もこうした日本と日本人を本当に愛するクリスチャンがたくさん起こされることを心から祈っております。
日本に福音が広まるためにも、日本人は自虐的史観から解放されること、神が日本人を愛して日本人のすくいを願っていることを、どんどん述べ伝えていくことが大切であると思います。
神がこの会のはたらきをよく支えてくださることを祈ります!
 

イエスは、(1度目は)罪びとを招く為に来られました。

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 9月 9日(土)20時43分12秒
  私達は仏教徒のようになって伝道をしています。
https://www.youtube.com/watch?v=j1cmoztbC6M

ヤクザ組織や警察組織を中心に伝道しています。
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/777-59630.html

新宿・歌舞伎町
https://www.youtube.com/watch?v=oG_IaGqHXvY

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 

(無題)

 投稿者:白帯  投稿日:2017年 9月 4日(月)19時36分11秒
  私は、今や父・子・聖霊なるYHWHの住まいであり、内在されているが故に
in Christにあって、質問等の全ては、内なる「主イエス・キリスト」に尋ねています。
聖書に、父なる神が「これ(イエス)に聞け」と言っているからです。以上
 

>白帯様

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 9月 3日(日)12時52分44秒
  仰る通りであると思いますが・・・
ただすべての人間が、少なくともまっすぐにキリストに向かっているわけではありません。「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」「そしてそれを見出す者が少ない」と書いてある通りキリストには全人類を救う意思があってもすべての人間が救われるわけではありません。「この人によらない救いはない」と書いてありますからどのような道をたどっても最後にはキリストにたどり着かなければならないかも知れません。それでも人間が思考錯誤をするのもそれはそれで自然なのではないでしょうか。
 

>神はどこにいるのか

 投稿者:白帯  投稿日:2017年 8月13日(日)09時40分39秒
  イエス・キリストを、心から御迎えして受け入れた者には
今や父・子・聖霊なるYHWHの住まいであり、内在されているが故に
「生きる事はキリスト」です。
確認は必要ではなく、確信(Faith)のみ。
この世の事実や五感に関わらず、「天の真実こそがリアリティ」に生きる。
天の真理のまえにおいて、理論・理屈は無用且つ不要であると確信(Faith)する。
 

神はどこにいるのか

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 8月 4日(金)19時27分2秒
  無神論に興味を持っていろいろと調べていたのですが・・・ネット上である命題が問われていました。それは「神がいるならなぜ苦しんでいる人を救わず、不法を裁かないのか」というものです。これは人間が生きていると誰でも一度は持つ疑問です。まず苦しんでいる人に対しては「これは神から与えられた試練である」と言い張ることができます。不法に対しては「最後には必ず裁かれる」とこれまた言い張ることができます。なにしろ私達はどうやっても神を見たり聞いたりできませんから神がいると「見なす」ことしかできません。神が実在することを確認した人間はいません。しかし実在しないことを確認した人間もいないのです。しかしこのことに聖書のある一節が引っかかりました。それはマタイ伝だと第二十一章の三十三節です。「悪い小作人のたとえ」と書いてあります。それによると神はこの世界の状況をよく察していて、よく使いを送ってはちゃんと作物を収穫しておくようにと伝えているとあります。そして最後には戻ってきて、不法を行った者からすべてを取り上げる書いてあります。この記述を信用すると神は「たしかに今はこの世にはいない」ということになります。しかしそうなると疑問なのは「じゃあ神は今はどこで何をしているのか!?」ということです。しばらく考え込むことになりそうです。

>信者様
ううう~む・・・これまた難しい・・・
「アリウス」という人の名前自体を知りませんでした。検索してみたら司祭なんですね。私はキリストを被造物と見なすのは間違っていると思いますが・・・しかしキリストが被造物でないとするとなぜヨハネから洗礼を受ける必要があったんでしょうか。福音書にはヨハネが洗礼を授けるのをためらうシーンがあります。これも少し難しい問題になりそうですが・・・ああすいませんね、私の手には負えそうもありません。
 

質問

 投稿者:信者  投稿日:2017年 8月 1日(火)18時34分8秒
  ネット上では無責任な情報が流されることがありますが、キリスト教に関しても、「異端」とされているアリウスは、実はキリストが神であることを否定はしていなかった旨の書き込みがされたサイトもあります。本当のところを教えて下さい。
久保先生が執筆しておられるサイトで、アリウスに関して書かれたものを探したのですが、見つかりませんでした。「キリスト教読み物サイト」の記載があれば、その箇所を教えて下さい。
自分で調べた範囲は狭いのですが、いちおう、以下にわかったことを書いておきます。おかしな点に気づかれましたら補足頂けると幸いです。
一般にアリウスはキリストの神性を認めていたと云われますが、それは先在からのものではなくイエスにロゴスが受肉した後のこととして養子論的に考えられていたようです。アリウスは、キリストが最初の被造物であると主張したらしいので(この点は現代の「エホバの証人」と同様)、その時点でOUT!イエス・キリストを神であると認めたことにはなりません。神は創造主なので、被造物とみなすことは明らかに矛盾ですが、被造物でも神性は認め得るのでしょうか?この点がアリウスに関する最大の謎なのです。キリストを被造物としながら、どうしてキリストに神性を認めることができたのか?これは矛盾ではないのでしょうか?ただし、エホバの証人の場合で言えば、キリストは大天使ミカエルであり、天使は被造物であると同時に神性も持つとされるので、そう考えると天使キリスト論なら被造物と神性者との矛盾はクリアーされるようです。アリウスの場合も同様のロジックだったのでしょうか?
よく、ニカイア信条における神とキリストとの「同一本質」(ホモウシオス)を否定してイオータ一文字を入れて「ホモイウシオス」(類似本質・相似実体)を主張したのがアリウス派であると云われますが、これは中間派のセミ・アリウス主義とも云われます。つまり、「父」と「子」が存在としては別々であるが、似姿であることを主張する立場であり、「相似」(ホモイオス)を主張するホモイオス派とダブってしまうのですが、それはともかく、他には「父」と「子」は「異なる本質の者」(アノモイオス)であると主張するアノモイオス派というのもいたと云われ、いずれにしても同じ東方教会内のギリシャ教父の中で、「ホモウシオス」を主張する人々に疑義を唱える司教たちが多数いたわけです、詳しいことはわかりませんが、すくなくとも「ホモイウシオス」を主張する人々というのは、アリウスの説にも反対だがアタナシオスの説にも反対という中間的立場だったのであり、彼らへの支持者はアリウス支持者からも出たようです。ただし、アリウス派が分裂してそこから「ホモイウシオス」派が出たということではないようです。ところで、東方教会において三位一体(至聖三者)の教理の立役者ともいわれるカッパドキアの三教父はもともと「ホモイウシオス」派だったとの説もあります。しかしニカイア公会議後は、「同一本質」(ホモウシオス)と父・子・聖霊の三つの位格(ヒュポスタシス)を同時に受け入れることを説いたとのこと。
 

承認欲求

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 7月24日(月)13時12分42秒
  最近本を読んでいて「承認欲求」という言葉があるのを知りました。
心理学あるいは社会学の言葉です。これはつまり一言で言いますと社会的に他人から認知されたいという欲求のことです。一番身近なのがおそらく「自分の好きな仕事に就きたい」というものでしょう。極端になると「権力者になりたい」とかそういうのも含まれるはずです。これは現代社会を構成する上で一種の前提となっているものと思われます。それはいくら否定しても人間の中にあるものであり、なければ困るものです。しかし私が自分の心を精査していきますとたしかにそういう欲求はあるのですが、それとは別に「世間的なことにはあまり興味がない」「それよりも山や森にまじわって神々や精霊とたわむれていたい」という欲求があるのです。普通に考えれば絶対に前者の方がまともです。後者はむしろ社会に対して危険です。しかし宗教や信仰というものを考えてみた場合はむしろ後者の方が健康的なのではないでしょうか。どちらが「聖」でどちらが「俗」かと言えばそれはおそらく考えるまでもないことだからです。たしか聖書のどこかにも「一切のこの世的なものから遠ざかれ」と書いてある箇所があったと思います。しかし人間は世俗的な感覚や価値観からまったく遠ざかっていいものなのでしょうか。そんな人間が果たして人間らしく生きていけるものでしょうか。果たして正しい判断とは何でしょう。
 

そうですね

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 7月18日(火)10時42分37秒
  たとえば織田信長は比叡山を焼き打ちにしました。当時の比叡山は武力と財力を備えた一種の荘園領主であり、仏教と信仰を盾にして自分達の腐敗や堕落・暴力などを正当化していました。それが信長の怒りに触れたわけです。信長は比叡山一帯に火を放ち、老人から子供に至るまで一人たりとも生かしておきませんでした。これは僧侶を殺せば必ず地獄に落ちると信じられていた中世日本の道徳観念から完全に逸脱しています。そしてそれは「見せしめ」でした。彼もそのつもりだったはずです。しかし当然ながらそれは憎悪と反発を招きました。誰だって「それはやりすぎなんじゃないか」と思ったはずです。しかし聖書には人間が神を憎む正当性というものが基本的にないはずです。それは聞いたことがありません。ですので見せしめというものを神が実行するのは論理的に難しくなってきます。ただ思いますのは・・・神は「恐怖」というものを利用することがあるのだろうか?ということです。方舟の伝説やソドムやゴモラにおいて、神は人間が恐怖を抱くのを望むのでしょうか。私は以前の書き込みの中で「神への恐れ」という言葉を使いましたが、それは「恐怖」なのでしょうか。「恐怖」と「畏敬」は同じなのでしょうか?それとも違うのでしょうか?そこのところはまだよくわかりません。  

横からすいません

 投稿者:白帯  投稿日:2017年 7月17日(月)19時39分2秒
  聖書には、「見せしめ」ではなく、示唆・警告・お手本が書かれていると思います。

また、聖書は日本語ではなく可能な限り、原文に忠実に訳されたものは素晴らしいと伺いました。
日本語では、知ってかしらずか「キー」が隠されていたり、誤訳されているとも聞きます。

西周(日本で最初のフリーメーソン=反キリ)が関わっていたからでしょうか?
 

うう~む・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 7月 8日(土)21時23分47秒
  >よしゅあ様
どうも私には少し複雑な話になっているようです。では実際には聖書に「見せしめ」という概念はないということでいいのでしょうか。ソドムとゴモラですら見せしめではなかった、実際そう機能はしていない・・・ということでいいのでしょうか。
 

見せしめ・・・?

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 7月 3日(月)08時57分34秒
  宮本様  死後のすくいの否定論者は、最後の審判で命の書が提示されるのは、「第二の復活になった人に、『お前たちは神の国に入れないんだぞ。お前たちはすべて火の池なんだぞ』と全人類の前で見せしめにするために行うのだ」と、信じられないような改釈をする人がいます。なんでそのように読めるのか不思議に思って聖書を読んでいたら、ユダ7節が見つかりました。否定論者は、おそらくこれらの箇所をヒントにして、こうした暴論改釈をしているものと思われます。
聖書というのは、これが書かれた当時の人が、ごく普通に素直に読んでどのように理解できるかを第一に考えて読むものだと思います。それが聖書の基本的な読み方です。黙20:11~15をごく普通に素直に読んで、否定論者のように読めるでしょうか?どう考えても読めませんね…否定論は、明らかな恣意的改釈と信じられないような強引な読み込みのオンパレードだと思います・・・
 

全地の裁き手が立ち上がる時について。

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 6月27日(火)19時54分51秒
  キリスト教会(神学)の教えでは、
2000年前にイザヤ書61章が成就したことになっていますが、
イザヤ書61章とルカ4章16~19節と比較すると解ります。


イエスはイザヤ書の61章2節の途中で読むのをやめました。
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-1.html

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 

お金について

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月26日(月)11時55分1秒
  お金について思うことがあります。聖書には「空の鳥はまくこともたがやすこともしないのに主が養ってくださる。ましてやあなた方は鳥よりずっと価値あるものではないか」と書いてあります。しかし歴史を見てみますと・・・申し訳ないのですが私はキリスト教の歴史と人物史を知りません・・・たとえば道元は中国で悟りを許されて日本に帰ってきてから伝道をしますが迫害され、越前に逃れて永平寺を建立します。しかし寺の経営には大変苦労したと聞いています。彼だけでなく栄西も建仁寺の経営にこれまた苦労していたらしいです。禅だけでなく浄土真宗も蓮如が成人したばかりの頃はすっかり零落していて組織としては壊滅寸前だったそうです。どうしてなのでしょうか。彼らはキリスト教徒ではなかったですけれど当時の日本の民衆や貴族や武士などと比べればずっと神に近い人達だったはずです。どうして神は彼らに貧乏をさせたのでしょうか。

>信者様
うーん・・・少なくとも私にはなにがなんだか。これは聖書に対する質問というか神学的問題といったところですか。

>よしゅあ様
へえ「見せしめ」なんて概念があるんですね。初めて知りました。非常に恐ろしいです。そういえば旧約聖書には「主は熱情の神、報復を行われる方」といった記述がありますけど、そうした祟りをなす者とでもいうべき神のイメージはキリストのイメージとはまた違うもののように思えます。
 

敵はいつまで誇るのでしょうか

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月24日(土)16時42分30秒
  私の質問は要領を得ないようです。なんか世間話でもしましょうか。

誰にとっても同じかも知れませんが、私の身の回りでも神への道を断ち切った人間、信仰への可能性を排除した人間、霊という考え方を捨てた人間は非常に強力です。だってしょうがないだろう、神などいないし信仰も救済もただの考え過ぎだ、結局はそういうあやふやなものを信じない人間が勝つんだ・・・まさに「神への恐れは眼中にない」です。そして彼らには勝てません。何も感じない人間というのは本当に強いのです。信仰を確立した人間には災難があっても苦難はありません。逆に信仰を殺害した人間にも災難があっても苦難はありません。というのも苦難というのは「神はどこだ!?神はいないのか!?」というものだからです。彼らは不法を友としています。そこには後悔も迷いも、恐怖も不安もありません。むしろ不思議な力に守られているかのように、獅子が進むかのように生きています。本当に聖書にあるように「全地の裁き手」が立ち上がる時は来るんでしょうか・・・これは世間話と言うか愚痴ですね・・・

>信者様
うーん・・・少なくとも私にはなにがなんだか。これは聖書に対する質問というか神学的問題といったところですか。

>よしゅあ様
へえ「見せしめ」なんて概念があるんですね。初めて知りました。非常に恐ろしいです。そういえば旧約聖書には「主は熱情の神、報復を行われる方」といった記述がありますけど、こうした祟りとでもいった神のイメージはキリストのイメージとはまた違うもののように思えます。
 

聖書塾スタート

 投稿者:レムナント出版  投稿日:2017年 6月20日(火)21時10分47秒
  ●月刊 久保有政 (聖書塾)スタート!
 ビデオ(web)や直接受講で学べる
 「世界情勢」「歴史」「経済」など、あらゆる分野を網羅し、毎月ひとつのテーマにしぼり、久保有政氏(レムナント誌主筆)による「久保理論」をレクチャー。そののち受講者の質問にも答えていく「久保塾」とも言い換えることのできる「月刊 久保有政」。セミナー修了後は久保氏を囲んでの懇親会も開催(一般人のための聖書塾です)。
 どこでも学べるWEBビデオ受講と直接受講が選べます。
 詳細・申込: https://mugenju.com/content/?id=3473

●VIP 「日本文化と聖書」講演会
 (日本文化の土台を形成した当方古代キリスト教徒
  神道と仏教の儀礼行事に残る聖書の教え)
 7月12日および19日 夜6:15~8:30 東京:お茶の水OCCビル416号室にて 講師:久保有政
 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/chirashi1.pdf

●月刊レムナント(聖書解説誌) 発売中
 7月号(内容): 米朝もし戦わば 織田信長は古代イスラエル人の子孫だった 漢字が語る聖書の教え、 あなたの教会でもできる過越の祭 他。
 紙版 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/eremback.htm
 PDF版 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/eremback.htm#PDFban
 kindle版  http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/remnantnew.htm
 

永遠の見せしめ・・・?

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 6月19日(月)21時23分25秒
  ユダ7「永遠の火の刑罰」「見せしめ」やペテロⅡ2:6「ソドムとゴモラの見せしめ」は、文字とおりに読むのではなく、「徹底的な破壊」を意味する象徴的表現との見解があるようです。
たしかに、ソドムとゴモラを焼いた火はとっくの大昔に消えてしまっていて、決して永遠に燃えているわけではありません。また、見せしめというからにはその廃墟が後世にもずっと残っていなければ見せしめになりませんが、とっくの大昔に死海の底に沈んでしまっていて、具体的な場所はわかならくなっています。これでは見せしめになりません。
聖書のほかの箇所をみましても、イザヤ34:10のエドムを焼いた火の煙はとっくの大昔に消えていて、決して永遠にあるわけではありませんし、黙19:3の大淫婦が焼かれる火も、新天新地ではなくなっているはずなので、決して永遠にあるわけではありません。
そうしますと、ソドムやゴモラも、徹底的に破壊されるという裁きを受けましたが、必ずしも永遠の地獄行きとは限らないようにも読めそうです。
すべては、最後の審判になってからでなければ明確なことは言えないことですが・・・
 

質問

 投稿者:信者  投稿日:2017年 6月18日(日)21時11分32秒
  質問ですが、異端の「サベリウス主義」(サベリウスの様態説)と「父神受苦説」(または「天父受苦説」)とは同じですか?
下記のリンク先サイトでは、両者の内容は違うので混同してはならないことが示されています。
しかし一般的には、両者がよく同じものとして言われていると感じます。参考までに、本当のところはどうなのか、教えて下さい。
http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda4/13cpLgojjl9Qs45543.htm
 

ルシファーとサタン

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 6月14日(水)12時23分16秒
  ルシファーとサタンはどう違うのでしょうか。ルシファーは『失楽園』の主人公であり七つの大罪において傲慢を象徴する存在です。サタンはヨブを試みた存在であり、福音書ではユダが乗り移った対象です。私自身の感覚から言うのですがユダは「傲慢」と言うよりかは「逃避」とか「臆病」といった言葉を割り当てた方が適切であるような気がします。ユダはその弱さからサタンに魅入られてしまった存在であるというのが私が今のところ持っている認識です。キリスト教から離れますが仏教世界における滅びの子であるダイバダッタは傲慢を絵に描いたような人物です。彼はその傲慢さから道を踏み外し、罪を犯し、生きたまま地獄に落とされます。ですのでダイバダッタはルシファーと重なります。サタンにとってダイバダッタは何者だったのでしょう。そしてルシファーにとってユダは何者だったのでしょうか。  

(無題)

 投稿者:高砂  投稿日:2017年 6月10日(土)10時00分9秒
  聖書には、「恐れるな」と365買い回も言われています。
新約聖書の要諦は、真のキリスト者であれば内に神が内住されている。

神は、ペテロに「これに聞け」と一喝。
これとは、当然にイエスのことです。
イエスは聖霊によって内住されてます。
なので、「外に求めるものは何もない」と、疑う余地はなし。
 

インサイダー・ムーブメント

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 6月 4日(日)19時54分55秒
  貴誌6月号に掲載されていましたインサイダー・ムーブメントですが、まったく正しいことなのかどうかは別問題として、私も決して否定的にはみません。むしろ、大勢の日本人が、神道や仏教を信じながらでもいいので、まずはキリストがどういうお方なのかを知って、キリストを信じてすくいを受けられるようになることを切に願います。
海外でも、たとえばイスラムの信仰を捨てたとみなされるとどんな迫害も受けるかわからない国もありますので、イスラムを信じつつもキリストを信じてすくいを受けられる人が多くあらわれることを祈りたいと思います。
 

しつこいようですが・・・

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月27日(土)12時38分14秒
  また主の日について質問させていただきます。
あれからインターネット上をめぐって終末思想やそれに基づく情報を参照してみたのですが、どうやら現代はこれまでにないほどいわゆる世界の終わり、神の介入、物質主義の終焉、悪の清算といった出来事が待望されているようです。私は前の書き込みの中で「この閉塞感に満ちた状況を打開してくれるならもう何でもいいと思わないこともありません」と言いましたが多くの人が同じような感覚を持っているようです。しかし気になるのは聖書に「その日その時がいつになるかは誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ父のみがご存じである」と書いてあることです。天使ですら知らないことが私達人間にわかるものでしょうか。なんとなく、天使達は神様からその日がいつ来るかを事前に知らされていて準備に余念がない・・・というイメージを持っているのですがそれは間違っているのでしょうか。しかし天使達が「神様が何かをするだなんてそんなことはないから大丈夫」なんて思っているはずがありません。久保先生や皆さんを疑うわけではないのですが「その日が近づいている」と思ったり言ったりすることが人間には許されているのでしょうか。聖書には「枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、あなたたちは夏の近いことを知る」と書いてありますがそれは「知識」とも言え「予想」とも言えます。私達はその日が近いことを本当に知っているのでしょうか。

>よしゅあ様
これはどうも。共感していただけるとは幸いです。そうですね、私も自分にできることをやります。
 

神の国への希望

 投稿者:よしゅあ  投稿日:2017年 5月22日(月)20時14分53秒
  宮本様のお気持ちも理解できます。最近は、内戦や核開発や戦争のうわさなどが多く、私も怖くなってきました・・・私たちは、自分一人の力だけでは、こうした試練に勝つことは困難なように思われます。
私たちは、毎日、キリストが私たちと私たちの家族に支えと安全と勇気をお与えくださることと、キリストの再臨に希望を持ち続けることを、祈り続けていくことが大切であると思います。
 

そうなんですか

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月14日(日)07時39分45秒
  >久保先生
そうなんですか。私の場合その日に対して絶望的になったり恐れたりするのではなくてある程度は楽観的になるべきなんですね。そしてその日は「破滅」ではなくて「試練」なんですか。勇気を持つようにします。それからその日を望む気持ちがあってもそれは不健康ではなくて自然であるということですか。少し安心しました。そして勉強になります。
 

Re:主の日

 投稿者:久保有政  投稿日:2017年 5月11日(木)09時21分10秒
編集済
    この世が終末をやがて迎えるのは、この世が自らの罪のゆえに自滅の方向に向かっているからです。確かに試練なくこの世が続いていってくれればよいと思うのが人間ですが、聖書はやがてこの世は悪と罪が最高潮に達するときを迎えると預言しています。それは避けられません。そうして最高潮に達して、もはやどうしようもない状態になったとき、神はこの世に介入し、地上の悪に終止符を打たれます。それか主の日です。それまでのあいだ主は、ひとりでも多くの人が神に立ち返ることを望んでおられます。神はそののち、神を愛する人々に、至福と永遠の命の神の国を継がせられます。
その終末の試練の時は、ふつうの人にとっては耐えることの困難なときですが、神を信じる人には「栄光の御霊」が宿ると述べられています。主はその試練を乗り越える力を与えてくださいます。心配はいりません。弱い人も強められます。それは主の力を体験するときになります。試練の向こうには栄光の至福の国があります。ですから神を待ち望む人にとってその日は、恐れるべきものでなく、むしろまちのぞむべきものです。

 

主の日

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月 7日(日)19時49分24秒
  せわしないですがまた質問させて頂きます。
久保先生はコンテンツの中で「現代がすでにその時を間近にひかえていることは、ほぼ確実と思われます」と仰っていますが、私はその日を生きのびる自信がありません。私は「主の日」「大いなる日」「恐るべき日」が臨んだら殺されると思っています。実際聖書には「誰がその日に耐ええよう」と書いてあります。それとも間近に迫っている「その時」と「主の日」は違うのでしょうか。主の日においては「わざわいだ、主の日を待ち望む者は」と書いてあります。その日はこれまでなくこれからもないほど過酷なものになると書いてありましたので少なくとも歴史上にはまだその日は来ていません。たしかにこの閉塞感に満ちた状況を打開してくれるならもう何でもいいと思わないこともありません。しかし心の中ではなんだかんだ言って何も起こらず、このぬるま湯のような日常の延長線上に神の救いがあるのではないかと甘い考えをしているのです。創世記における方舟の伝説ではノアは救われましたがそれ以外はみんな消されてしまいました。主の日が望むのは何のためなのでしょうか。そしてその後の世界はどうなるのでしょう。単純に考えるのならキリストによる神の国が実現するのだと思います。しかし、私は自分もこの世界もその恐るべき日に耐えられるとは思えないのです。選ばれた人だけを救うのが神の御心なのでしょうか。
 

久保先生へ

 投稿者:大城勝  投稿日:2017年 5月 6日(土)17時44分27秒
  今日は久保先生の、旧約時代の「よみ」における実話を読んで目から鱗でした。

「ラザロと金持ち」のこの話は"たとえ話"と呼ばれることもありますが、私はこれを"たとえ話"とは考えておりません。
なぜなら、キリストはたとえ話を語られるとき、必ず「ある人が・・・・」と言われました。
「ぶどう園のたとえ」(ルカ二〇・九)でも、
「タラントのたとえ」(マタ二五・一四)でも、「宴会のたとえ」(ルカ一四・一六)でも、「ある人」と語られています。
しかしキリストは、この「ラザロと金持ち」の話においては、「ラザロ」「アブラハム」と、具体的人名をあげられました。
具体的人名が出てくるのに、どうしてそれが"たとえ話"であり得るでしょうか。

キリストが、かつて「栄華をきわめたソロモン」について語られたとき(マタ六・二九)、それは実話でした。
キリストが、「神によって滅ぼされたソドムとゴモラ」について語られたとき(マタ一〇・一五)、それは実話でした。
キリストが、「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜んだ」(ヨハ八・五六)と語られたとき、それは実話でした。
ですから、キリストが「ラザロ」「アブラハム」と実名をあげて語られたとき、それは当然、実話であったと私は考えています。
それは、旧約時代の「よみ」における実話なのです。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm

先週も東久留米の教会に行ったら目から鱗が取れました。
これからは、私の伝道方法を方向転換していきます。
色々とありがとうございます。 感謝です。<m(__)m>
http://www.jesus4-25.com/kyoukai/666-7.html

http://www.jesus4-25.com/kyoukai/masaru-2.html

 

へえ!

 投稿者:宮本  投稿日:2017年 5月 6日(土)16時30分29秒
  ご返答まことにありがとうございました。少し難しかったですがコンテンツも一読しました。
よみの世界というものがあるのですね。そこで人間はもう一度、幸いにとは言えないようですが時間と猶予が与えられるわけですか。非常に興味深い他界観です。
 

Re;質問があるのですが

 投稿者:久保有政  投稿日:2017年 5月 6日(土)10時59分32秒
   ご質問ありがとうございます。
 人間が死後行く場所には、天国、よみ、地獄の3つがあります。
 よみと地獄は混同されてきましたが、別の場所です。ダンテの時代に、よみと地獄は混同されていましたので、ダンテの書いたものは参考にはなりません。
 信仰を確立することなく、特に善いことをしたわけではないが特に悪いことをしたわけでもない方々は、よみに行きます。よみは幾つかの場所に分かれており、生前の行いに応じて、それぞれの場所に行き、そこで人生を振り返るときを与えられます。
 また福音を聞く機会も与えられます。このよみでの機会を、セカンドチャンスといいます(ファーストチャンスはこの世の生です)。
 そして世の終わりの最後の審判のときに、よみの人々はすべてその審判の法廷に出されます。よみの人々の中で、すでに神に立ち返った人々は、新天新地の神の国に入ります。一方、神に立ち返ることのなかった人々は最終的に地獄へ行きます。地獄は世の終わりの最後の審判以降のための場所です。
 詳しくは下記をご覧くださるといいと思います。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomema02.htm
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm
 

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